花筏ページ2

1961年、東京生まれ。日大芸術学部在学中の83年に劇団「東京サンシャインボーイズ」を結成。劇団は94年度の公演から30年間の充電期間に入っている。以降、脚本家として数多くのTVドラマを執筆、近年は映画監督も手掛け、精力的に活躍。代表作に「ラヂオの時間」「コンフィダント絆」など。芸術選奨文部科学大臣賞、紫綬褒章。

作演出:三谷幸喜出演者:竹本千歳太夫鶴澤清介吉田一輔ほか作曲:鶴澤清介美術:堀尾幸男照明:服部基音響:井上正弘舞台監督:加藤高協力:国立文楽劇場文楽協会製作:井上肇プロデューサー:毛利美咲企画製作/株式会社パルコ

*電話予約WEB発売開始:6月9日[土]博多座

舞台は元禄十六年四月七日、大坂の曾根崎天神の森で醤油屋の手代徳兵衛と北新地の遊女屋天満屋のおかかえ女であるお初が心中死をとげた。この心中事件を題材に近松門左衛門が書いた物語が『曾根崎心中』。この近松が書いた『曾根崎心中』は大ヒット。その後、なぜかこの天神の森は、第二、第三のお初と徳兵衛と言わんばかりに心中のメッカとなっていた。その天神の森の入り口にある饅頭屋。夫婦が営むこの饅頭屋だが、自分の家の目の前でここまで心中を繰り返され、店から客は縁起がわるいと遠のき、饅頭屋はかたむきかけていた。

ある夜、毎度のように若い男女が饅頭屋の前を通りかかった。我慢できなくなった饅頭屋の親父は、とにかく自分の家の前でここまで心中を繰り返されることが嫌な一心で、この男女に「ここで死ぬな」と説得する。思い至った二人は死ぬことを思いとどまり、帰って行った。饅頭屋の親父はほっとする。しかし、またある日には別の男女が……。同じように「ここで死ぬな」と説得、思いとどまらせ、あげくのはては腹がすいている二人に饅頭を食わせてやった。

こんな日々を繰り返しているうちに、なぜか饅頭屋が流行りだす。しかし、なぜか皆親父に身の上話をし、饅頭を買って帰る。どうやら巷では「人生相談所」としての評判がたっていた。これを商売にしない手はないと饅頭屋の妻は「曾根崎饅頭」と銘打って名物饅頭を売り出した。これがまた評判を呼び、饅頭屋は大流行り。一度は傾きかけた店は富を蓄え、そして大金持ちとなった。

あれから、17年。金持ちになった饅頭屋はその富におぼれ、散財し贅沢な暮らしをしていた。しかし、そんないいことは長くは続かない。最近、心中にくる男女もめっきりこなくなり、饅頭屋も閑古鳥。実は近松門左衛門があらたな心中もの『心中天網島-しんじゅうてんのあみじま-』を発表し、これが大ヒットで、心中のメッカは曾根崎から網島が「心中のメッカ」として、ブームになっていた。なんとその網島には天ぷらやがあり、自分たちと同じように「かきあげ天網島」という名物天丼で大繁盛のようだ。この状況に怒った饅頭屋の主人は近松門左衛門に直談判へ行く。どうか天神森で起こるあらたな心中ものを書いてほしいと。しかし、近松は、自分が書きたいものしか書かないと親父を追い出すが、この状況をなんとかしたい親父は食い下がる。あまりにもしつこい親父に困り果てた近松は「それならば、お初、徳兵衛のようにドラマチックな本当の心中話があれば、それを題材に書いてもよい」と言う。饅頭屋は、「ではドラマチックな心中をつくろうじゃないか」と帰る。

饅頭屋には一人娘があった。実は網島の天ぷら屋の一人息子と恋に落ちていた。しかし、家族は敵対、二人は一生一緒になることができないとロミジュリよろしく悲恋物語のヒロイン。そこで饅頭屋の親父はこの二人はおそらくほっておくと心中するかもしれない、そうすればこの題材を元に近松門左衛門にあらたな心中ものを書いてもらえるかもと悪魔のような考えが浮かぶ。しかし、富を得るために、まさか自分の娘に心中をさせるわけにはいかないと思いとどまり、娘を天ぷら屋の息子の元へ行かせてしまった。

もう八方ふさがりの饅頭屋の夫婦、店は傾き、もう打つ手はない。生きていく力をなくし、夫婦は自らの天神森で命をたとうとするが……。

国立劇場小劇場主催公演六月雅楽公演「雅楽器の魅力」公演期間2018年6月9日[土]開演時間午後2時開演(午後4時終演予定)*開場時間は、開演の30分前の予定です。───────────────演目出演雅楽器の魅力笙黄鐘調調子(おうしきちょうのちょうし)篳篥八仙急(はっせんのきゅう)龍笛蘇莫者破(そまくしゃのは)琵琶秘曲揚真操(ようしんそう)箏太食調掻合(たいしきちょうかきあわせ)/抜頭(ばとう)神楽歌朝倉(あさくら)管絃散手序(さんじゅのじょ)芝祐靖=作曲編曲管絃雉門松濤楽(ちもんしょうとうらく)悠聲(ゆうせい)/泰鳴(たいめい)/玉手輪説(ぎょくしゅりんぜつ)/雉聲(ちせい)

<解説>フライヤーより転載シルクロードにより伝わった異国の歌舞と、日本古来の歌舞とが結びつき、平安王朝文化の中で大成した雅楽。現在もなお多くの人を魅了するその響きは、多様な雅楽器のアンサンブルにより作り出されます。

主に和音で演奏される「笙-しょう」、主旋律を担う「篳篥-ひちりき」、旋律を彩る「龍笛-りゅうてき」、リズムを明確にする「楽琵琶-がくびわ」、琵琶とともに合奏全体のリズムを作る「箏-そう」。このほか、打ち物といわれる「鞨鼓-かっこ太鼓-たいこ鉦鼓-しょうこ」など、雅楽器の独自の響きに惹かれるのでしょう。

そこで今回は雅楽器に着目し、前半では楽器単体での演奏をお聴きいただきます。笙「黄鐘調調子-おうしきちょうのちょうし」、篳篥「八仙急-はっせんのきゅう」、龍笛「蘇莫者破-そまくしゃのは」、琵琶「秘曲楊真操-ひきょくようしんそう」、箏「太食調掻合-たいしきちょうかきあわせ/抜頭-ばとう」という、それぞれの楽器の魅力を最大限に引き出す演奏は、合奏では味わうことのなかった新たな雅楽の魅力を示します。続く「朝倉-あさくら」は、神楽歌の中でも名曲中の名曲といわれ、神楽笛、篳篥、和琴の独奏、そして歌の独唱と、技巧だけでなく音楽性や声量も求められる非常に難易度の高い曲です。

それぞれの楽器の響きを味わった後、後半は、合奏をお聴きいただきます。古典曲「散手序」は、管絃ではあまり演奏されませんが、今回は笙篳篥龍笛の三管による音頭の演奏に、助奏が同じ旋律を追いかける退吹-おめりぶき-による演奏をお楽しみいただきます。

そして最後は、芝祐靖作曲の「雉門松濤楽-ちもんしょうとうらく」をお聴きいただきます。この曲は「国立劇場開場五十周年を寿ぎ、そして雅楽のこれからの千年に捧げる」をテーマに作られました。今回は笙篳篥笛琵琶箏の響きがより際立つよう編曲しての上演となります。

雅やか、かつ悠久な雅楽の響きは、他の音楽では味わうことができません。その響きを生み出す雅楽器を知ることで、より深く雅楽の魅力を味わっていただければ幸いです。

出演=豊英秋、安齋省吾、大窪永夫、池邊五郎、東儀季祥、大窪康夫、大窪貞夫、豊靖秋──────────前売開始電話インターネット予約開始=4月11日(水)午前10時窓口販売開始=4月12日(木)

父方の松本幸四郎家の芸と、母方の祖父初代中村吉右衛門の芸を継承し独自の芸風を確立している。特に『勧進帳』の弁慶は全国47都道府県で上演し1100回を超える偉業を達成。このほかの当たり役として『仮名手本忠臣蔵』の大星由良之助『菅原伝授手習鑑』の松王丸など時代物の大役のほか近年は『筆屋幸兵衛』の幸兵衛など黙阿弥の世話物も手掛け芸域を広げている。

また日本のミュージカル俳優の草分『ラマンチヤの男』のセルバンテスとドンキホーテは1200回以上演じたほか現代劇でも『アマデウス』のサリエリなど数々の当たり役を持ち歌舞伎のみにとどまらず様々な分野で活躍している。平成17年紫綬褒章日本藝術院会員文化功労者。

昭和48年1月生まれ。二代目松本白鸚(九代目松本幸四郎)の長男。54年3月歌舞伎座『侠客春雨傘』の金太郎で三代目松本金太郎を名のり初舞台。56年1011月歌舞伎座『仮名手本忠臣蔵』七段目の大星力弥『助六曲輪江戸桜』の福山かつぎで七代目市川染五郎を襲名。

古典の二枚目や女方など幅広い役柄を演じ近年では『勧進帳』の弁慶、熊谷陣屋』の熊谷直実など父祖の当たり役である線の太い役柄にも挑戦して好評を得た。また家の芸系にはない『恋飛脚大和往来』の忠兵衛などの上方歌舞伎の和事や復活狂言にも積極的に取り組んでいる。

歌舞伎以外の舞台では、劇団☆新感線による『阿修羅城の瞳』『アテルイ』などに主演これらの舞台は歌舞伎NEXT『阿弓流為(アテルイ)として進化を遂げ歌舞伎に新しい世界を切り開いた。近年ではラスベガスで行った公演での『獅子王』で伝統の技と最新のテクノロジーを融合させた意欲作を成功させるなど精力的に活動している。平成11年紀伊国屋演劇賞個人賞平成15年芸術選奨新人賞。──────────{新宿餘談}

やつがれ弱小のみぎり、オヤジの書棚にあった『眞山青果全集』に触れ、「ト書き」などで状況設定や構成の妙がわかる戯曲の、小説とはちがうおもしろさにひかれた。のちにこの全集を古書店から購入して読みふけった。記憶では亀倉雄策氏の装幀で重厚な装本であったが、繰りかえした引っ越しのなかに没した。そんなこともあって、戯作者:眞山青果、ついで福地櫻痴らにあこがれ、脚本家をめざした恥ずかしい過去がある。これは斯界の大先輩に非才をきつく指摘され、わりとあっさり断念した。それでも突然の難聴におそわれるまでは、映画やテレビよりも、ライブでの芝居が好きだった。

歌舞伎界では「高麗屋三代同時襲名披露」が話題になっている。この三代同時での襲名披露は37年ぶりの快挙だとしておおいに人気をあつめている。ところがやつがれ、この37年前の「高麗屋三代同時襲名披露」公演に、記憶にあるかぎり三度は歌舞伎座に通った。錦吾さんと現二代目白鸚はおなじ年のうまれで、どちらも矍鑠としているが、先代の初代白鸚は、襲名のとき、すなわち37年前には、すでに老化がめだち、襲名披露公演のときもセリフも所作も弱しかった。そのため先代白鸚の「部屋子」としてながらく修行してきた錦吾さんが、白鸚の出番のすべてに「黒子-くろご歌舞伎では存在しない役者なのがきまりごと」の衣裳をつけて、白鸚にピッタリと寄りそって介添えしていた。

「幕見席」なら、ひと幕だけを見ることもできるが、錦吾さんからの突然の招集で「最終ひと幕」を見るときは、車を萬年橋東松竹の駐車場に入れ、公演がはねたあと、近くの船宿から役者仲間といしょに東京湾に夜釣りに行くことが多かった。同行者のなかにはとんでもない大看板役者もいたが、釣り船というより屋形船を仕立てての釣行だった。釣りはいちおう穴子ねらいであったが、釣果を気にしないにぎやかな五目釣りで、釣れたはしから船頭さんがどんどん刺身や天麩羅にして酒の肴となっていた。

たしかに眼をおおきく剥いての荒事芝居のあと、すぐに、「さぁ、終演です。明日に備えて帰りましょう」では辛かろうし、贔屓筋からの招待の席も疲労を招くようであった。なによりも人気稼業の役者のことゆえ、ひと目をきにせず、東京湾にのんびり浮かぶ釣り船は、気楽さが一番だったようだった。つまり、こういうとき下戸のやつがれは錦吾さんらの帰宅の運転を引きうけることになった……。それにしても、あれから37年とはまったくもって烏兎匆匆のおもいである。

初代の歌舞伎座は、演劇改良運動の熱心な唱導者であった福地源一郎(櫻痴)が、自分たちの理想を実現すべき日本一の大劇場を目指し造られたもので、明治22年11月21日に開場しました。

外観は洋風でしたが、内部は日本風の三階建て檜造り、客席定員1824人、間口十三間(23.63m)の舞台を持つ大劇場で、今も歌舞伎座の座紋である鳳凰丸〔登録商標〕は、この時から用いられています。明治44年7月に施設の老朽化と帝国劇場の出現を受けて改造されることとなりました。──────────《四月大歌舞伎では眞山青果作品が、六月博多座では福地櫻痴作品が上演される》ときおりメールマガジン「歌舞伎美人-かぶきびと-」が送られてくる。おおかたのメルマガはスルーだが、この情報は楽しみにしている。一月二月歌舞伎座「高麗屋三代同時襲名披露」の切符争奪戦──よい席で観たい──は熾烈だったようである。二代目白鸚が元気なので、白鸚と同年うまれの錦吾さんは37年前とはちがって、昼の部夜の部双方で大奮闘されていた。高麗屋一門は、昨年末の浅草仲店での「襲名お練り」からはじまり、一月二月の歌舞伎座での襲名披露公演があり、三月からは名古屋京都とつづいて六月は博多座での公演が発表された。ここに松本金太郎改め八代目市川染五郎が登場しないのは、まだ12歳の中学生でもあり、さすがに地方公演では参加を見送っているらしい。

四月大歌舞伎昼の部で、眞山青果作「江戸城総攻」から「西郷と勝」が上演される。明治百五十年ということもあるのだろうか、眞山作品のひさしぶりの上演である。

ところで博多座、夜の部に福地櫻痴作「新歌舞伎十八番の内春興鏡獅子」が上演されるらしい。櫻痴の戯作にはおなじ「新歌舞伎十八番の内素襖落すおうおとし」や、「春日局」など、意外に地味な作品もあるが、この「新歌舞伎十八番の内春興鏡獅子」は、長唄囃子連中が舞台せましと居ならび、あかるく艶やか、賑やかで愉快なこと、まさに明治一の粋人といわれた福地櫻痴の面目躍如たるものがある。福岡博多座までいってでも高麗屋の「春興鏡獅子」をみたいものである。

国立能楽堂2018年五月5月9日の定例公演は、能「放下僧」です。父の敵を狙う兄弟は放下(僧姿の芸人)に扮して敵に近づき、禅問答や歌舞を見せて隙を狙い、復讐を遂げます。曲舞(くせまい)羯鼓(かっこ)など様々な中世の芸能も見所です。

5月12日の普及公演は、能「俊寛」です。平清盛失脚を狙う陰謀が発覚し、鬼界島に流された俊寛僧都たちのもとに赦免状が届けられます。しかし、そこには俊寛の名だけがありません。一人残される俊寛の、壮絶な絶望と孤独が描かれます。

5月18日の定例公演は、能「杜若」です。在原業平が詠んだ和歌で知られる杜若の名所三河国(現在の愛知県)八橋。旅の僧の前に杜若の精が現れ、『伊勢物語』の世界を語り、業平や二条后の形見を身に付けて舞を舞います。

5月25日の狂言の会は、「家世代を越えて」がテーマです。狂言は、家ごとの出演者での上演が中心ですが、他の家の出演者との共演で普段とは異なる魅力をお楽しみいただきます。重鎮に中堅若手が挑む配役にもご注目ください。

★★★

新年度を迎えて東京の桜はあっという間に散ってしまいました。来る5月は田植えの季節、水をいっぱいに湛えた田を見るのは本当に清々しいものです。

[水掛聟-みずかけむこ-]さて、狂言には農業を扱った作品がいくつかあります。その代表作が今回上演する「水掛聟」です。この狂言には親子が登場します。親子といっても聟(むこ)と舅、義理の親子です。この二人、それぞれ隣り合った別の田を耕作していて、日照り続きの頃、自分の田に水があるかどうか心配で見回りをします。すると隣の田には水があって自分の田に水がない。どうもお互い土を盛って「我田引水」、水を独り占めしているようです。鉢合わせした二人は論争になり、ついには水の掛け合い、泥の塗り合いとなります。この騒動を聞きつけた妻(娘)が飛び出すものの、夫と親との板挟み、さてどちらの味方になるでしょうか。実際こんなこともあっただろうという水論争、生活が掛かっていますから本当は深刻なはずですが、狂言ではあくまで明るく楽しい親子喧嘩、結末の後味も良く理屈抜きに誰もが楽しめる名作となっています。

[放下僧-ほうかぞう-]一方、同時上演の能「放下僧」は、まさしく命が掛かった敵討ちを描いた作品です。口論の末に父の左衛門を利根信俊に殺された牧野小次郎は、ともに敵討ちをしようと禅門に出家していた兄を訪ねます。弟の説得によって兄も敵討ちを決意し、禅を好む利根に近づこうと二人は「放下」という芸能者(兄は僧形、弟は俗体)に変装します。近頃夢見が悪い利根は瀬戸の三島(現在の神奈川県の瀬戸神社)に参詣すると、そこで二人の放下に出会います。この二人こそ小次郎とその兄、二人は利根の好む禅問答で機会を窺いますが果たせず、次いで曲舞、羯鼓、小歌節と芸尽しによって利根の油断を誘います。ついに利根の隙に乗じて敵を討つことに成功、二人は名を末代に残します。問答形式による緊迫感溢れる言葉の応酬、敵を狙いつつ舞う芸能の数々、見どころいっぱいの能です。シテの兄のみならずツレの小次郎、ワキの利根信俊、アイの従者、登場人物それぞれが大活躍する物語が能のイメージをきっと変えてくれるでしょう。

親と子の争い、兄と弟の苦難の敵討ち、家族をめぐる能と狂言を是非ご覧ください。

株式会社IHI社内報『あいえいちあい』2018年2月号(通巻687号)表紙表紙裏本文三ページにわたって「手引き式活版印刷機」を紹介

平野富二(ひらのとみじ)1846年10月4日〔弘化3年8月14日〕-1892年〔明治25年〕12月3日

国立能楽堂四月定例公演武悪籠太鼓公演期間2018年4月20日[金]開演時間午後6時30分開演(終演予定午後8時45分頃)*開場時間は、開演の1時間前の予定です。──────────〔演目主な出演者〕狂言武悪(ぶあく)石田幸雄(和泉流)武悪──府奉公な召使い武悪を成敗せよと命じられた太郎冠者は、どうしても斬ることができず武悪を逃がします。前半の緊張から後半の喜劇へ劇的に展開する狂言です。

能籠太鼓(ろうたいこ)舞入(まいいり)田崎隆三(宝生流)籠太鼓──殺人の罪を犯し逃亡した夫の身代わりとして捕らえられた妻は、牢にかけられた鼓を鳴らして夫を想います。妻のひたすらな想いが哀愁を誘う作品です。

「武悪」に登場する主人は数ある狂言のなかでも最も恐ろしい人物です。なにしろ召使いを成敗しろと命令し、もし自分に偽りを言えば「末孫を絶やすぞ」と脅すのですから。しかし、「武悪」のタイトルロール武悪も負けていません。そんな怖い主人に楯突いて不奉公を決め込んでいるばかりか、幽霊に化けて主人から数々の物を取り上げてしまうほどの「剛の者」です。

一方、能「籠太鼓」の影の主人公、関の清次も「剛の者」です。作品には登場しないため語られるだけの男、清次は口論した相手を殺害し、その咎で牢屋に入れられます。しかし、隙を見て牢を破って逃走してしまいます。代わりに牢に入れられた清次の妻は、夫への想いから狂気となって、この牢こそが懐かしい夫よと舞を舞います。本当に狂気となったのか、偽りの狂気なのか解釈の分かれるところですが、それを見た松浦の某は夫婦ともに助けてしまいます。実は妻こそが清次よりもさらに「剛の者」だったということなのかもしれません。

能狂言いずれも「剛の者」を軸にドラマチックに物語が展開する大変見応えのある作品です。狂言ではシテの武悪、アドの主と太郎冠者、能ではシテの清次の妻、ワキの松浦の某、アイの従者それぞれが大活躍することもこの能と狂言の共通点です。どうぞお見逃しなく!

チェコセンター東京展示室変わらぬ原作、変わり続ける翻訳―日本とKチャペックの文学会期:2018年3月7日[水]ー3月28日[水]平日10:00-17:00会場:チェコセンター東京展示室〒150-0012東京都渋谷区広尾2-16-14チェコ共和国大使館内TEL:03-3400-8129企画:ブルナルカーシュ(実践女子大学)入場無料──────────今年は、チェコを代表する作家カレルチャペックの没後80年にあたります。チャペックの作品は、戦前から今日にいたるまで盛んに邦訳され、数多くの読者に親しまれてきました。本展示では、約1世紀にもおよぶ、日本におけるチャペックの翻訳史を回顧し、チャペックの文学を日本の読者に届けた翻訳者にも光を当てます。開催初日には飯島周氏(日本チェコ協会)、阿部賢一氏(東京大学)、竹内涼子氏(平凡社)によるオープニング記念トークも予定しています。ぜひお越しください。

3月23日、チェコセンターの展示「変わらぬ原作、変わり続ける翻訳―日本とKチャペックの文学」を皇后陛下にご鑑賞いただきました。

先月、トマーシュドゥプ駐日チェコ共和国大使が午餐にお招きいただいた際に、幼少期よりカレルチャペック作品に親しまれてきた皇后陛下に当展示をご紹介し、本日お出ましいただけることとなりました。

日本でこれまで刊行された約70冊の書籍や展示パネルに加え、チャペック自身が撮影した写真を御覧いただきましたあと、トマーシュドゥプ大使、チェコセンター東京所長高嶺エヴァ、本展の企画者であるルカーシュブルナ氏、『マサリクとの対話―哲人大統領の生涯と思想』などを翻訳された石川達夫氏、チェコのカレルチャペック記念館館長クリスチナヴァーニョヴァー氏とご歓談いただきました。

展示室では、幼いころにお持ちだった『世界名作選』を御覧になり「懐かしいですね」と仰ったほか、チャペックの愛犬ダーシェンカの写真に微笑まれたり、作品が出版された時代についてご質問をされたりなど、展示をお楽しみいただけたご様子でした。

私どもの展示にお越しいただきましたことを、チェコセンター一同大変光栄に思います。──────────{新宿餘談}

《ヨゼフとカレル、チャペック兄弟の墓地をたずねて》プラハ:ヴィシェフラット民族墓地Vyehradskyhbitovはチェコの首都:プラハの中央部にゆたかな緑につつまれて鎮まっている。ここには「合同霊廟スラヴィーンSlavín」があり、アールヌーヴォーの華といわれながら、晩年にボヘミアンとしての民族意識にめざめ、無償で描いた超大作絵画「スラブ叙事詩」をのこしたアルフォンスミュシャ(現地ではムハ)がねむり、その斜め前にはボヘミアとスラブの魂を歌曲にした作曲家:スメタナもねむる。

兄:ヨゼフはゲシュタポに捉えられ、強制収容所に歿したために、歿時の月日記載がないのが胸をうつ。弟:カレルの墓は、1938年の没年ではあるが、現代のロケットともあまり相違ない形象のロケット型の墓標である。ふたりとも第一次世界大戦と第二次世界大戦のはざまという、過酷な時代をいき、そして誇り高きボヘミアンであった。最後にチャペック兄弟の最後をしるした一文を、来栖継氏の「解説」から紹介したい。『山椒魚戦争』(カレルチャペック作、栗栖継訳、岩波文庫)「解説」p.453-4

〔前略〕一九三九年三月十五日、ナチスドイツ軍はチェコに侵入し、全土を占領した。〔弟カレル〕チャペックも生きていたら、逮捕投獄されたにちがいない。事実、ゲシュタポ(ナチス-ドイツの秘密警察)は、それからまもなく〔カレル〕チャペックの家へやって来たのだった。やはり作家で、同時に女優でもあるチャペック未亡人のオルガシャインプルゴヴーは、ゲシュタポに向かって、「残念ながらチャペックは昨年のクリスマス〔1938年12月25日歿〕に亡くなりました」と皮肉をこめて告げた、とのことである。チャペックの兄のヨゼフチヤぺックも、「独裁者の長靴」と題する痛烈な反戦反ファッショの連作政治マンガを描きつづけた。そのために彼は、ゲシュタポに逮捕され、一九四五年四月、すなわちチェコスロバキア解放のわずか一ヵ月前、ドイツのベルゲン=ペルゼン強制収容所で、栄養失調のため死んだ。彼が収容所でひそかに書いた詩は、戦後『強制収容所詩集』という題名で出版された。〔後略〕

思い出深い御園座が新たな御園座となる公演で「祖父(七世幸四郎)の時代からお世話になっている名古屋で、私が息子とともに晴れがましい襲名披露興行を、しかも新生御園座の柿葺落で上演できますこと、まことに胸がいっぱい。いろいろな思い出がよみがえってまいります」。白鸚は子役時代、御園座の当時の常務(後の長谷川栄一会長)に、「東山動物園で弟(吉右衛門)と象に乗せていただいた」という微笑ましい話もはさみながら、「名古屋で芝居ができることがうれしい」と喜びました。

大好きな『操り三番叟』を初めて勤めたのが、御園座に初お目見得を果たした初代松本白鸚十三回忌追善公演だった幸四郎。昨年の「錦秋名古屋顔見世」の千穐楽で、「幕が降りても拍手が鳴りやみませんでした。名古屋の皆様にひと月温かく見守っていただいたこと、ありがたく思っておりました。次に名古屋で幕が開くときは、幸四郎として幕を開けさせていただきます。柿葺落で皆様に喜んでいただけるよう勤めたい」と、意気込みました。

代々の高麗屋が大切にしてきた『籠釣瓶』『勧進帳』昼の部の「口上」に続く『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)』で、幸四郎が初役の次郎左衛門、白鸚は長兵衛を勤めます。幸四郎は「治六、栄之丞では出させていただいておりますが、(次郎左衛門を加えた)三役をする人はまずいないのでは。曾祖父(父の母方、初世吉右衛門)から代々当り役としている役をもって幸四郎のお披露目をさせていただく。責任感を強く強く持って、皆様にお披露目できれば」と、表情を引き締めました。

白鸚、幸四郎が語る御園座「柿葺落四月大歌舞伎」夜の部は『梶原平三誉石切』に続き、『勧進帳』。白鸚は11年前の最後の御園座出演と同じ弁慶で新御園座に立ちます。「御園座さんの柿葺落で弁慶。これは命を賭けてやらなければ申し訳ない。ひと月間、死に物狂いでいたします。息子にはちょっと出しゃばった白鸚と思われるかもしれませんが、これはやらなければと思いました」。弁慶役に初めて刻まれる白鸚の名。「父が白鸚となって1回目の弁慶で、富樫を勤めさせていただきます」と、幸四郎にとってもまた特別な富樫となりそうです。

白鸚、幸四郎が語る御園座「柿葺落四月大歌舞伎」幸四郎が初役で勤める伊左衛門。十七世、十八世勘三郎のビデオを見て、「あのように自由に、力を抜いて舞台に立って、それが芝居であるという、そういう舞台の立ち方に憧れます。そこに清元の音楽。見ていての気持ちよさと軽やかさ、本当に伊左衛門の気持ちそのもの。そういう風情のある芝居ができる役者になりたい」。念願かなったうれしさいっぱいですが、「初役で襲名のお披露目、これ以上高いハードルはありません。高麗屋の人間である、幸四郎であることをより意識して舞台に立ちたい」と、力強く語りました。

「すごく真剣に見られている視線を感じるのが名古屋のお客様」、芸どころ名古屋を意識すると言ったのは幸四郎。名古屋には昔からの踊りがそのままの形で残っているものが多いので、「その面白さを勉強し、お披露目できるようにしたい」と抱負を述べました。

もともと<花筏>には、日日のよしなしごとを、気軽にしるしてきた。なかんずく、「朗文堂好日録」には、もろもろのことどもを、おもいつくままにしるしてきた。それが良かったのか悪かったのかしらないが、おもいのほか(横暴かつわがままきわまる)固定読者がいて、すこしでもアップロード(掲載)をおこたると、「躰の具合でもわるいのか」と心配(のフリ)をしてお便りを頂戴したり、ときには「サボるな!」とメールで叱責されたりする。──────────あちこちにしるしてきたが、ノー学部がベランダいっぱいに煉瓦を積みあげ(それ以降は放置)、さまざまな艸艸を植え、たいせつにしてきた(やつがれ)「空中花壇」を、マンションの補修工事のために、ロダンの椅子(100円ショップで購入のバケツを裏返したもの)もろとも完全に撤去されてしまった。

残念なことに移植の直後、一株はカラスにもちさられたが、冬だというのにみるみる成長した。この艸の名前はわからなかった。名前がないのもなにかと不便だから<才助>と名づけて成長をみまもっていたが、どうもたんなるデージーのような気がしないでもなかった。それならそれでも良い。やつがれ、五代才助こと、五代友厚の稚気にみちた才覚が好きであるから……。のちに花をつけてからわかったことである。恥ずかしながら……、<才助>はハルジオンとかヒメジオンとよばれるきわめて繁殖力のつよい植物で、どこの空き地にも自生している艸で、世間では雑草とよぶものであった。

慶応4(1868)年3月6日。麹町半蔵門を望むお濠端で、勝海舟は、将軍徳川慶喜の助命を嘆願するために西郷隆盛のもとへ出向く山岡鉄太郎と遭遇します。勝は、万一の時には慶喜をイギリスに亡命させる秘策を打ち明けます。

3月14日、薩摩藩長州藩をはじめとした官軍による江戸城総攻めを翌日に控え、勝は江戸薩摩屋敷の西郷隆盛のもとを訪れます。江戸城無血開城を提案する勝に、西郷は三つの条件を提示して………。江戸城無血開城。のちの大政奉還、明治維新へとつながる歴史的なできごとには、二人の男の英断がありました。激動の時代のなかで、立場は違えど江戸の人々の生活を守るために奔走した西郷隆盛と勝海舟を描く一幕をご覧いただきます。

下男小助は、足利家の家督を継ぐ鶴千代を殺すための毒薬の調合をしたことで褒美を得た町医者の大場道益を殺害、大金を奪います。一方、足利家の御殿では、乳人政岡が鶴千代の身を守っています。そこへ管領山名宗全の妻栄御前が現れ、毒入りの菓子を鶴千代に勧めますが、政岡の子千松が菓子を食べてしまいます。千松は執権仁木弾正の妹八汐にとどめをさされますが、政岡が表情ひとつ変えないことから、栄御前は政岡が味方だと勘違いし、悪人方の連判状を渡してしまいます。しかし、その連判状を大鼠に化けた仁木弾正に奪われ……。

菊五郎ゆかりの時代物の悪人仁木弾正と世話物の悪党小助の2役を、当代菊五郎が実に23年ぶりに演じます。善悪が入り乱れる伊達家の御家騒動を描く傑作をお楽しみいただきます。

〈序幕〉近江国多賀家の分家左枝大学之助は御家横領を企み、多賀家の重宝「霊亀の香炉」を盗み出します。大学之助は京の道具商田代屋の養女お亀の美しさに心を奪われ、無理矢理妾にしようとしますが、お亀の許嫁与兵衛の実兄である多賀家の家老高橋瀬左衛門が阻みます。後日、多賀家の陣屋に現れた大学之助は、傲慢な振る舞いを瀬左衛門に咎められ、多賀家の重宝「菅家の一軸」で打ち据えられますが…。

〈二幕目〉京の四条河原。大学之助と瓜二つの太平次に惚れ込んでいる蛇使いのうんざりお松は、太平次のために質屋から「霊亀の香炉」を取り戻そうと田代屋を強請(ゆす)りますが、失敗に終わります。田代屋の後家おりよは、与兵衛とお亀をわざと勘当し、香炉を渡して出立させます。しかし、太平次はおりよを殺害、金を奪うとお松とともに田代屋を後にしますが…。

〈三幕目〉京を離れた太平次は、大和国倉狩峠で旅人の休憩所である立場を営むようになり、そこへやってきた高橋家ゆかりの人々を次々手にかけ…。〈大詰〉天王寺近くの庵室。瀬左衛門の弟弥十郎は合法と名のり、太平次によって深い傷を負わされた与兵衛を庵室に匿っています。しかし、そこへ大学之助が現れ、与兵衛は斬られてしまいます。死に際の与兵衛の話から、ある事実が判明し…。

四世鶴屋南北の名作『絵本合法衢』が、片岡仁左衛門一世一代によって、ついに歌舞伎座初上演です。極悪非道な権力者大学之助と、悪事の限りを尽くす町人太平次の二人がみせる悪の魅力を存分にご堪能いただきます。

日時平成30年4月8日[日]午後1時30分受付開始午後2時-午後4時15分講師及び演題芳賀徹氏(東京大学名誉教授)「福沢諭吉の見た幕末維新」ロバートキャンベル氏(国文学研究資料館長)「文学の中で「国を開く」ということについて」場所一橋講堂(千代田区一ツ橋2-1-2学術総合センター内)定員494名(応募多数の場合、抽選)参加費無料申込方法メール本文に下記の1-3を記入の上、bakumatsu@bun.co.jpまでお送りください。1.参加者氏名2.希望人数3.電話番号(自宅/携帯番号)*サポートが必要なお客様はお申し出ください申込受付期間受付中平成30年3月23日[金]まで

会期2018年4月7日[土]-5月27日[日]入館料一般1000円、大学生800円、高校生60歳以上500円、小中学生100円*土日曜日、祝休日及び夏休み期間は小中学生無料*毎週金曜日は渋谷区民無料*障がい者及び付添の方1名は無料休館日4月9日[月]、16日[月]、23日[月]、5月7日[月]、14日[月]、21日[月]主催渋谷区立松濤美術館────────────────20世紀初頭から活躍した、中欧チェコの芸術家、兄ヨゼフチャペック(1887-1945)と弟カレルチャペック(1890-1938)の兄弟。ヨゼフはキュビスムの画家として数々の作品を発表し、それにとどまらずカレルの著書の装丁を手がけ、また自身も多くの著作を遺しました。また、カレルは文筆家として、第二次世界大戦前の不安定な社会において、多くの新聞記事、戯曲、旅行記、批評などを発表しました。二人は戯曲などを多数共同制作し、中でも1920年発表の戯曲『R.U.R.』で「ロボット」という言葉を生み出したことで知られています。

また、二人は子どもをテーマにした作品も多く発表しています。ヨゼフが挿絵を手がけた童話『長い長いお医者さんの話』、カレルが愛犬「ダーシェンカ」を写真とイラストで紹介した本など、日本でも有名な作品が挙げられます。本展は、二人の故国チェコの世界遺産都市クトナーホラーに開館した、現代美術館GASKで開催された展覧会を基に、子どもの心を持ち続けた兄弟の作品を、その生涯とともに紹介するものです。

わが国の、お札、切手収入印紙国債などの諸証券などの印刷は、独立行政法人国立印刷局が担っている。これらの証券印刷は、万にひとつでも偽造(印刷)物が流布したら大きな混乱をもたらすので、精緻かつ巧妙、さらには美的要求にまで応ずる、さまざまな工夫と技芸の粋がこらされている。印刷局でのこれらの原版彫刻、デザインなどの業務は、「印刷局工芸官」という専門職員がおこなっている。

ここであらためて2018年、日本郵便による「年賀葉書」の左側面に朱色で印刷された、切手と消印にあたる部分をみてみよう。基本的な絵柄はお正月らしく、吉祥文としての富士山と、ことしの干支にあたる戌(犬)が主要モチーフである。このふたつの絵柄のなかに富士山がいくつか描かれ、犬の足の爪に擬して、ローマ大文字の「FUJI」が置かれている。さらに消印部にあたる罫線下側を仔細にみると、右から二行目と四行目に、ひら仮名による「嘉語」が刻されていることが読みとれる。

これらの原版彫刻は、すべて手作業により、図柄や文字を彫刻士が製作したものであり、これを高精度な「OCR光学式読みとり装置」などをもちいて、真贋を瞬時に判別し、数十億枚という膨大な数量のはがきでも迅速な処理を可能としているとされる。こうした印刷局工芸官の技倆の一端を、おもにグラビア凹版切手の側面から紹介したのが《お札と切手の博物館2017年春の特集展──刻線の美》展であった。

《お年玉切手シートにも、楽しい技巧がこらされています》

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お札と切手の博物館明治150年関連施策特別展(平成29年度第2回特別展)日本近代紙幣の礎となった男たち──明治150年──印刷局はじまりの物語──

開催日:平成29年12月19日[火]-平成30年3月4日[日]開催時間:9:30-17:00*2月23日[金]は、19:00まで休館日:月曜日(祝日の場合は翌平日)、2月11日[日]開催場所:お札と切手の博物館2階展示室入場料:無料──────────国立印刷局は、明治4(1871)年の創設以来、日本の紙幣製造に携わってきました。明治10年には西欧の先進技術を習得して、近代国家にふさわしい紙幣の完全国産化を実現し、日本の紙幣製造元としての第一歩を踏み出しました。この技術が現在の日本銀行券の製造技術の基盤となっています。このように印刷局において、創業期にあたる明治時代は重要な時代です。特に明治時代初期から中期にかけては経営基盤を確実なものとするために本業の技術を生かして様々な製品を製造、販売することが行われており、他の時代とは一線を画しています。本展では、キーパーソンとなった人物の事績を紹介しながら、当時の印刷局の事業について解説します。

「春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出て立つをとめ」──桃の花が照り映える美しい道に佇む少女よ──麗らかな春の庭の様子を写しています。

『万葉集』に、いわゆる万葉仮名でしるされた大伴家持のうたが、こうした丁寧な解説付きで閲覧できることはうれしい限りである。IT弱者のやつがれ、知人に教えていただいた国立公文書館をはじめとする公的施設のFacebookを閲覧したく、いつものように周回遅れもいいところ、ログインしないと半分隠されることが多いFacebookへのログイン作業をようやく終えた。それでもまだ恥ずかしくて、親指をたてて「いいね!」をしたり、シェアなどという手順は知らないので、ただ黙って拝読しているが、いつも心中は「いいね!」である。こういう読者もいても良いとおもっている。この週末には再度国立公文書館にでかける。足跡は残さないつもりだ。

その作品は一見ユーモラスで、何の苦もなく描かれたように思えます。しかし、70年以上に及ぶ制作活動をたどると、暗闇でのものの見え方を探ったり、同じ図柄を何度も使うための手順を編み出したりと、実にさまざまな探究を行っていたことがわかります。描かれた花や鳥が生き生きと見えるのも、色やかたちの高度な工夫があってのことです。穏やかな作品の背後には、科学者にも似た観察眼と、考え抜かれた制作手法とが隠されているのです。

東京で久々となるこの回顧展では、200点以上の作品に加え、スケッチや日記などもご紹介し、画家の創造の秘密に迫ります。明治から昭和におよぶ97年の長い人生には、貧困や家族の死などさまざまなことがありました。しかし熊谷はひたすらに描き、95歳にしてなお「いつまでも生きていたい」と語りました。その驚くべき作品世界に、この冬、どうぞ触れてみて下さい。

*飯田俊徳(いいだ-としのり、1847-1923)日本の鉄道の父といわれる井上勝らと共に、日本の鉄道敷設に努めた明治時代の官僚、技術者。山口県萩市出身。元長州藩士。萩藩大組飯田家の子として生まれ、幼名吉次郎。藩校明倫館に学んだ後、吉田松陰の松下村塾にまなび、また大村益次郎らに師事する。高杉晋作率いる奇兵隊にも所属していた。

1867年(慶応3)12月、藩命で長崎米国オランダへ留学。帰国後工部省鉄道局に入局。1877年(明治10)、大阪停車場(現大阪駅)構内にて日本最初の鉄道技術者養成機関として設立された「工技生養成所」で教鞭を執り、多くの技術者を育て上げる。翌年、東海道本線京都大津間にて逢坂山トンネル建設の総監督を務め、2年後完成させた。これは日本人の手で施工された最初の鉄道トンネルである。その後も東海道本線をはじめとする東海地方関西地方の数々の鉄道敷設を主導、1890年(明治23)に鉄道庁部長となるが、3年後鉄道国有化問題で退職。晩年は長男新の住んでいた愛知県豊橋市に隠居し、そこで没した。

*手塚猛昌(てづか-たけまさ1853-1932)明治-昭和時代前期の実業家。「時刻表の父」として知られる、明治期の実業家。日本最初の月刊時刻表とされる「汽車汽船旅行案内」の発行者。現在の山口県萩市須佐出身。嘉永6年11月22日生まれ。神職をつとめたのち慶応義塾にまなぶ。明治27年「汽車汽船旅行案内」を発行。星亨(ほし-とおる)らと東京市街鉄道をおこし、39年東洋印刷を設立し社長。明治40年帝国劇場の創設にも参加した。昭和7年3月1日死去。享年80。本姓は岡部。

明治期の鉄道技術者。鉄道庁長官。日本鉄道の父とされる。長門国(山口県萩市)の長州藩士井上勝行の三男として天保10年(1843)8月1日生まれる。いっとき野村家を継ぎ野村弥吉と名のり、明治維新後実家に復籍して井上勝と称した。長崎や江戸、そして箱館(函館)の武田斐三郎(たけだ-あやさぶろう)の塾で洋学を修めた。

1863年(文久3)いわゆる「長州五傑長州ファイブ」のひとりとして、伊藤俊輔(伊藤博文ひろぶみ)、井上聞多(井上馨かおる)、山尾庸三(わが国工学の父1837-1917)、遠藤謹助(近代貨幣制度の導入者造幣局長1836-1893)らとともにイギリスに密航、このとき井上勝は二〇歳、養家の姓から野村弥吉と名乗っていた。

英国滞在中はユニヴァーシティカレッジロンドン(ロンドン大学群)で鉄道、鉱山技術を学び卒業、1868年(明治1)帰国。1871年工部省鉱山頭兼鉄道頭に任ぜられ、翌1872年鉄道頭専任となり、東京-横浜間(新橋駅-桜木町駅)の鉄道敷設に尽力した。関西で鉄道建設がはじまると鉄道寮の大阪移転を断行した。外国人技師主導からの自立を目ざし、飯田俊徳をはじめとする日本人鉄道技術者を養成し、1871年からの京都-大津間の敷設には、井上自身が技師長となって逢坂山トンネル建設の難工事を乗りこえ、はじめて日本人だけの手で工事を完成した。技監、工部大輔、鉄道庁長官などを歴任、東海道線ほか幹線の敷設に貢献した。

1893年、幹線国有化論を主張したことがもとで鉄道庁長官を辞任した。1896年汽車製造合資会社(のちに株式会社となったが、1972年川崎重工業に吸収)を設立、社長となった。欧州での鉄道視察中に病に倒れ、若き日を過ごしたロンドンで1910年8月12日息をひきとる。享年68。遺言によって、現地で荼毘に付されたのち、東海寺大山墓地(東京都品川区北品川4-11-8)に埋葬された。ここはJR東海道本線JR山の手線京浜急行東海道新幹線の鉄道線路に近接した場所である。井上勝、愛称:オサルの得意やいかにとおもわせる地でもある。東京駅(丸の内北口付近)に彫刻家:朝倉文夫による銅像があったが、同地区再開発工事中のため撤去されており、現在はみられない。

(追記:初掲載{活版àlacarte}2017年12月08日。本稿アップロード寸前、2017年12月07日丸の内広場北西端、オアゾビルと新丸ビルの近くに、井上勝像が10年ぶり再建されたことを夕刊で各紙が報じていた)

幕末に伊藤博文井上馨山尾庸三井上勝遠藤謹助らとともに、「長州ファイブ」のひとりとしてイギリスへ密航留学、帰国後は日本工学教育の分野で活躍し、工部大学校(後の東京大学工学部)創設に尽力するなど、日本の工学教育形成に尽力した山尾庸三を紹介。本展は、2017年が山尾庸三没後100年という節目の年にあたることから、これを記念し開催されたもので、2016年3月に山尾家から萩市に寄贈された約1000点の資料の中から一部を展示。大部分が初公開となる貴重な資料を観覧できる。

明治時代の旧長州藩出身の官僚。天保八年(一八三七)十月八日、萩藩士山尾忠治郎の次男として出生。文久元年(一八六一)、幕府が江戸その他の開市開港の延期を諸外国と交渉するため、勘定奉行竹内保徳をヨーロッパに派遣した際、庸三は同使節に随行し、シベリアに渡る。翌年、帰国後、高杉晋作らの攘夷運動に加盟して、品川御殿山のイギリス公使館の焼打ちに参加したこともある。その後、英国商人のTグラバーの助力を得て、四人の同志とともにイギリスにおもむき(密航)、その産業や文化を視察した。この時の同行者のなかに、のちの伊藤博文や井上馨らがいた。

明治三年(一八七〇)に帰国後、庸三は民部権大丞兼大蔵権大丞を経て工部大丞へ昇進、同十三年には工部卿に就任。この間長崎製鉄所の責任者であった平野富次郎(富二)との接触が多かった。その後、宮中顧問官法制局長官などを歴任し、また同二十一年、東京日比谷官庁街の建設事業を担当する臨時建築局総裁を兼ねたこともある。同二十年、子爵を叙爵。また岸田吟香らとともに楽善会訓盲院(現筑波大学附属視覚特別支援学校東京都文京区目白台3-27-6)の創立につくした。大正六年(一九一七)十二月二十一日没。八十一歳。[参考文献]古谷昌二『平野富二伝-考察と補遺』、井関九郎編『現代防長人物史』三、『国史大辞典』(吉川弘文館)──────────山尾庸三は現下の<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>でも注目される存在であるが、古谷昌二氏は『平野富二伝―考察と補遺』の「二-六長崎製鉄所の経営責任者就任と退職」(.p.96-109)のなかで、すでに相当詳しく論述されている。

山尾庸三は明治三年(一八七〇)に英国から帰国後、当時、工部権大丞で、新設されて間もない工部省の実質的な責任者であった。『文書科時務簿』(長崎県立図書館所蔵)の年表によって全体の流れを見ると、次のことが分かる。

このように、慶応四年から明治四年にかけて、製鉄所の経営改善を名目にして経理上の不正が行われ、これが工部省移管の過程で発覚し、その渦中に巻き込まれた平野富次郎の様子を窺がい知ることができる。

長崎製鉄所の工部省移管のために、山尾庸三が長崎に出向き、平野富二と対面したとき、山尾庸三は算えて三四歳、すでに新政府の高官であり能吏であった。いっぽう長崎製鉄所の事実上の責任者として中央官僚と対峙することになった平野富二は算えて二六歳、長崎の地下役人の立場でありながら、前任者たちの乱脈経営をきびしく指摘され、つらい立場となった。それでも富二は終止誠実に対応し、山尾庸三は好感をもったようである。富二も明治一七年(一八八四)一二月三日「工学会への寄付により同会の賛助会委員として登録される」などの記録をのこしている。また先般開催された<メディアルネサンス平野富二生誕170年祭>の「江戸東京活版さるく」でも山尾庸三の設立にかかる工部大学校(後の東京大学工学部)跡地を訪問した。工部大学校時代の山尾庸三はこんなことばをのこしている。おそらく山尾庸三は若き平野富次郎/平野富二にも、おおきな可能性を見いだしていたのではなかろうか。平野富二は翌年上京し、多くの近代産業を興している。

標示物:「お玉ヶ池と種痘所跡」標柱、記念プレート、解説板概要:安政5(1858)年5月に江戸の蘭方医83人が出資して、神田お玉が池に「種痘所」を設置した。この土地はのちに累進して幕府勘定奉行筆頭となった川路聖謨(かわじとしあきら1801―68)が、かつて所有していた私有地を提供したと伝えられている。しかしこの地での「種痘所」は、同年11月、開設からわずか半年にして火災により類焼したため、大槻俊斎(おおつきしゅんさい1806―58)と、伊東玄朴(いとうげんぼく1801―71)の家を臨時の種痘所とし、その後神田和泉町へ移った。→●43、●42

なおこの土地の提供者とされる川路聖謨は、のちに累進して幕府の勘定奉行となり、ロシアのプチャーチンとの外交交渉を担当したことでも知られる。ロシア側は川路の聡明さを高く評価し、その肖像画(写真)を残そうとしたが、子供の頃に疱瘡(天然痘)を患ったために痘痕(あばた)顔であった川路は、「自分のような醜男が、日本男児の標準的な顔だと思われては困る」という機知に富んだ返答をしたという逸話が残っている。また筆まめで『長崎日記』、『下田日記』(東洋文庫124平凡社)などをのこした。

戊申の折には「表六番町-現在の市ヶ谷近くか」に隠居し、また中風になって右腕が不自由な躰であったが、江戸開城の報を聞き、割腹、さらにピストルを喉に発射、自死して徳川幕府に殉じた。日本で最初にピストル自殺をした人物ともされる。

『落日の宴-勘定奉行川路聖謨』あとがき〔前略〕川路〔聖謨〕は、幕末に閃光のようにひときわ鋭い光彩を放って生きた人物である。軽輩の身から勘定奉行筆頭まで登りつめたことでもあきらかなように、頭脳、判断力、人格ともに卓越した幕吏であった。このような異例の栄進は、一歩道をあやまれば日本が諸外国の植民地になりかねない激動期に、幕閣が人材登用を第一とし、家柄、序列その他をほとんど無視したからである。大きな危機感をいだいていた閣老たちは、川路をはじめとした有能な幕吏を積極的に抜擢し、その期待にかれらは十分にこたえた。開国以後の欧米列国との至難な外交交渉、国内の目まぐるしい混乱をへて日本を明治維新にすべり込ませることができたのは、これらの秀れた幕吏の尽力に負う所が大きい。〔後略〕

参考資料:『国史大辞典』(吉川弘文館)

川路聖謨かわじとしあきら(一八〇一-六八)

川路聖謨は平素文筆に親しんで多くの遺著を残したが、遠国奉行中の日記をはじめ、露使と応接した『長崎日記』『下田日記』、京都に使いした『京都日記』『京日記』および晩年の日記は『川路聖謨文書』全八巻(『日本史籍協会叢書』)に収められる。ちなみに下田奉行外国奉行などを歴任、外交の第一線で活躍した井上清直は聖謨の実弟である。

吉村昭は、昭和2年(1927)、現在の荒川区東日暮里六丁目に生まれました。多感な時期を荒川区で過ごし、その時の経験は「吉村昭」の原点となりました。随筆や短篇小説には度荒川区が登場し、最後の長篇小説も荒川区を舞台とした「彰義隊」でした。本展示では、荒川区で過ごした幼少期から青年期にかけての写真やゆかりの品などから「吉村昭」の原点をたどり、自筆原稿や作品に関連する挿絵を通して、吉村の描いた作品世界を紹介します。

その後この五重塔は、関東大震災と太平洋戦争の厄災にもよく耐えてきた。したがって平野富二の墓も、これから述べる戸塚文海の墓も、この谷中五重塔をおおきくふり仰ぐような位置に設けられていたことになる。ところが一九五七(昭和三二)年七月六日早朝、放火心中事件によって心柱をのぞいて谷中五重塔は焼失をみた。焼失後に焼け跡の心柱付近から、男女の区別も付かないほど焼損した焼死体二体が発見された。わずかに残された遺留品から、ふたりは都内の裁縫店に勤務していた四八歳の男性と二一歳の女性であることが判明した。現場には石油を詰めた一升ビンとマッチ、睡眠薬が残されており、不倫関係の清算をはかるために焼身自殺を図ったことがわかった。現在は谷中霊園内、いわゆる碑文通り交番の裏手に礎石だけが保存され、ちいさな公園となっている。

寺号も一八三三(天保四)年護国山天王寺と改称され、一八六八(慶応四)年彰義隊と新政府軍の兵火によって、本坊と五重塔をのぞく多くの塔頭が焼失した。その後一八七四(明治七)年に寺域の大半を東京府に移管して谷中霊園が成立した。さらに第二次世界大戦の末期、上野駅と鉄道線路付近に投下された米軍機の焼夷弾によって、寺域の相当部分に火焔がおよび、また周辺の谷中霊園東端に面した「平野富二墓標」をはじめ、墓地の損害もおおきかった。

◎東京慈恵会医科大学(本院)沿革(同大URLより)明治15年(1882年)8月高木兼寛の主唱により、救療のための病院として賛同者の協力により有志共立東京病院開院明治18年(1885年)4月有志共立東京病院に看護婦教育所を付設明治20年(1887年)4月皇后陛下を総裁に迎え「慈恵」の名を賜り、有志共立東京病院を東京慈恵医院に改称明治24年(1891年)2月高木兼寛個人経営の東京病院開設明治40年(1907年)7月社団法人東京慈恵会設立、東京慈恵医院を東京慈恵会医院と改称。同医院に附属医学専門学校及び附属看護婦教育所を置く大正9年(1920年)4月高木兼寛逝去

徳川家達(とくがわ-いえさと1863-1940)は旧徳川将軍家第一六代当主、政治家。三卿のひとつ田安家(徳川慶頼)の三男として生まれ、はじめ亀之助と称した。一八六八(慶応四)年前将軍慶喜にかわり、かぞえて六歳の幼少ながら新政府から徳川宗家の相続を命ぜられ家達と改名。五月に駿河遠江(静岡県)三河(愛知県)七〇万石に転じ、翌年、版籍奉還により静岡藩藩知事となった。一八七七(明治一〇)年から一八八二年までイギリス留学、一八八四年公爵となり、一八九〇年貴族院議員、一九〇三(明治三六)年同議長につき以後三〇年間同職にあった。また日本赤十字社社長、済生会会長などの名誉職に任じ、ワシントン軍縮会議の全権委員も務めた。

碑文をしるした(撰)のは、漢学者の「東宮侍講從四位勲三等文學博士三島毅」である。三島毅(みしま-こわし中洲と号す。文学博士1830-1919)も旧幕臣で、老中板倉勝静の家臣だった人物である。維新後は多くの碑文を撰し、また重野安繹(しげの-やすつぐ通称:厚之丞、薩摩藩士、昌平黌にまなぶ。維新後政府の修史事業にあたる。東大教授として国史科を設置。1827-1910)らとともに、三省堂編『漢和大字典』の編纂監修にあたった。この現代につらなる「漢語字典」の編纂事業が三島毅のおおきな功績とされている。

《幕末-明治初期の英語辞書、国語辞書、漢字字書漢和辞典の刊行》江戸中期からポルトガル語オランダ語の辞書が盛んにもたらされ、多くは写本であったが、一部は木版による翻刻本として刊行されていた。江戸末期にいたり、にわかに英語の有益性が注目され、『英和対訳袖珍辞書』(わが国最初の活字版英語辞書、堀達之助、洋書調所開成所刊、一八六二〔文久二〕)『和英語林集成』(ヘボン編纂、岸田吟香協力。上海で活字版印刷、和英辞典。一八六七〔慶応三〕)『改訂増補和訳英辞書』(いわゆる薩摩辞書、堀達之助『英和対訳袖珍辞書』を増訂し版を重ねた。薩摩学生:高橋新吉、前田献吉〔正毅〕、前田正名ら。上海で活字版印刷、一八六九〔明治二〕)などの英語辞書が陸続と刊行されていた。

『改訂増補和訳英辞書』(いわゆる薩摩辞書)には、開成所版からの増補であることと、その底本が、アメリカの語学者/ウェブスター(NoahWebster,1758-1843)による英語辞書『ウェブスター大辞典』を典拠としたものであることが明記されており、以下の三版が知られている。

A第一版『和訳英辞書』(明治二歳己巳正月千八百六十九年新鐫)。鐫は深く掘る。年月は旧暦/1869年-明治02年)。印刷所:AmericanPresbyterianMissionPress上海美華書館。和文序に「改訂増補和訳英辞書」、英文扉に「THIRDEDITION」とある。B第二版『大正増補和訳英辞林官許』(明治四歳辛未十月)。年月は旧暦/1871年-印刷所:AmericanPresbyterianMissionPress上海美華書館。英文扉に「FORTHEDITIONREVISED」とある。扉ページの「大正」は、元号を意味するものでは無い。C第三版『稟准和譯英辞書』(明治六年十二月紀元二千五百三十三年)。年月は新暦/1873年-明治06)。印刷所:東京新製活版所天野芳次郎蔵版(一部複写のみ所有。未見)。

同書の刊行にあたっては、薩摩藩士:五代友厚(才助)が大きく関係しており、上海美華書館に依頼して刊行した初版がきわめて好評で、利潤もおおきかったことにより、この再版以降の刊行事業を大阪でなそうとして、長崎の本木昌造らと計った。本木はこれに応えて人員を大阪に派遣したが、当時の設備と技倆では成功をみなかった。つまり全面的に組みなおされた第二版も上海での組版印刷製本となっている。その折りの五代から本木への貸付金、五千円と利息は、のちに平野富二が本木昌造にかわって返済にあたっている。

「文明開化」とはそういうものさ……、といわんばかりに、英語辞書の刊行が先行したかげで、近代「国語辞典」と「漢和辞典」の刊行はおおきく遅れた。江戸期までは、まとまった「国語辞典」が編纂されていなかったため、『ウェブスター大辞典』などの評価のある底本をえなかった両辞典の編纂は難航をきわめた。

維新からまもなく、一八七一(明治四)文部省編輯寮において『語彙』と称した国語辞典の編纂がすすめられたが、「いろは順」にするか、「あいうえお順」にするかというテーマでも議論が沸騰するばかりで、ようやく「あいうえお順」の配列と決したが、ようやく「あ」行の「え」にいたったころに計画は頓挫した。

漢語の辞典は、江戸時代には中国の『玉篇』、『康煕字典』の翻刻本が盛んに発行されていた。当時の教養人は漢字と漢文の素養に長けていたので、もっぱら若干の注釈を加えた程度の翻刻本をそのままもちいていたが、近代英語辞書と国語辞書の発行に刺激されるところがあり、「漢文漢字漢語辞典」の発行がまたれる風潮があった。

中国の「字書」として評価のたかい図書二冊を図版で紹介した。『説文解字』(せつもん-かいじ)は中国最古の漢字字書である。もとは一五巻。後漢の許慎の著とつたえる。漢字九千三百五十三字、異体字千百六十三字を五百四十部にわけて収め、漢字字画の構成および用法に関する六種の原則-すなわち、象形指事会意形声転注仮借の説によって、その字画字音字義を解説した書である。

『干禄字書』(かんろく-字書)は、中国の初唐の顔元孫の著による字書である。干禄とは禄を干(もと)めるの意で、官吏登用試験(科挙)受験者のためにつくられた実用的な字体字書である。およそ八百字を四声によって分類し、字ごとに正体通体俗体の三体をあげる。すなわち官吏たらんと欲するものは、通行体や俗体のような字をもちいず、正体をもちいるべきだとしている。のちに顔玄孫の子孫にあたる顔真卿が、正書して碑に刻して科挙の受験生らに公開され、それを木版にした刊本がこんにちでも伝承されている。

一九〇三(明治三六)年重野安繹三島毅服部宇之吉監修、三省堂編『漢和大字典』は、清の康煕帝の勅命によって一七一一年に成った『佩文韻府』系(はいぶんーいんぷ詩をつくったり、ことばの出典を調べる際の参考書。一〇六巻佩文は康煕帝の書斎名による)の辞典で、その後のわが国の一連の「漢和字典漢和辞典」の形式を創出した。

ほかに三島毅が名をのこしたのは、「昔夢会筆記-徳川慶喜公回想録」『東洋文庫』七六である。「昔夢会せきむかい」とは、会主が元一橋家家臣:渋沢栄一で、徳川慶喜伝記編纂事業の一環として明治末期に慶喜の回顧談を聞き、あわせて史料整理をおこなうための会であった。

会員は慶喜のほか、旧幕臣新村猛雄、老中板倉勝静の家臣だった三島毅、老中稲葉正邦の子稲葉正縄、旧桑名藩士江間政発、伝記編纂主任萩野由之および三上参次、小林庄次郎藤井甚太郎渡辺轍井野辺茂雄高田利吉などの名が記録されている。

「昔夢会せきむかい」は、一九〇七(明治四〇)年七月-一九一三(大正二)年九月まで、二五回の会が催された。会の談話筆記記録は『昔夢会筆記』として、慶喜没後の大正四年に印刷に付せられたが、まだ世情をおもんぱかるところがあって、わずか二五部のみの印刷で、伝記編纂関係者に配布されただけにとどまったとされている。いまは幕末史の研究資料として『東洋文庫』七六(平凡社)に所収されている。

古来中国には「碑碣学」とする学問がある。すなわち「碑」は四角形の石で、「碣」は円形の石の意であるが、転じて「碑碣学」は、石碑に刻されて後世にのこされた「いしぶみ研究」のことである。「碑碣学」にあっては、石に刻し鐫せられたふみ-いしぶみを、ときに拓本術などをもちいて読みとり、それを解釈し、注釈を加え、公刊することが盛んである。

明治維新と、昭和中期の敗戦というおおきな価値観の変動があったわが国では、急速に漢文と漢字の素養に欠けるようになっている。また古文書はおもくみるふうがあるが、実際にはかくいう稿者をふくめ、江戸期通行体の「お家流の書」はもちろん、文書や碑石にのこされた漢文調のふみ-おもいメッセージを読みとれなくなっている。

こうした風潮のなか、「海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘-戸塚文海先生之碑」を、ご自身で撮影した写真画像から、相当長文におよぶ一字一句を読みとり、それを解釈(釈読)されたのが古谷昌二氏である。まだ未完成だとされるが、テキストをご提供いただいたのでここに紹介したい。

從二位勲四等侯爵徳川家達篆額

皇上哀悼賻素縑二匹賜祭粢金七百圓越三日用海軍喪命葬谷中之阡元配戸塚氏先亡無子繼配久保氏生六男二女長男曰悦太郎承家曰幸三殤曰文雄曰春海竝留學西洋曰幸民曰五郎別養林氏子豊策改名環海現爲海軍軍醫總監君爲人頎然長偉剛直有才辯畢生用力醫務徳川氏之未欲建一大病院于京師東西奔走垂成而會戊辰之變不果徳川公之徙静岡也分置麾下士數萬人于駿遠二州士咸以僻地乏醫難之君與林研海坪井信良等謀建病院于静岡且多養生徒俟其業略成分遣各地書士乃安而就之及官于朝亦公餘刱興東京慈恵病院一以療窮民以勸醫術其餘如赤十字社之立案醫會之起首投資慫慂之遺言捐壹萬金資慈恵病院君平素遇門人親子不啻故其就病也遠近來問争之相看護云頃者文雄徴墓銘于余余學謭才劣固非三民之然以郷友之故往來親交誼亦不可辭

嗚呼余嚮嚮銘甕江今又銘君而一道與余皆老而病後誰銘余人者臨筆浩歎遂銘之曰起身市衣苦學辛勤醫傳西術仁及三軍濟世志成家門復興後昆紹述三折其肱

明治三十五年九月東宮侍講從四位勲三等文學博士三島毅撰吉田晩稼書

〈海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘-戸塚文海先生之碑読み下し文〉明治中興の初、我が中備(備中国)、朝(朝廷)に於いて布衣顕栄に起つ者は、蓋し三民。儒学に田甕江あり、洋学に原田一道あり、而して則ち医術は戸塚文海と為す。君、諱は正考、字は子成。文海は其の通稱。幼字は幸吉、號は甕浦。本姓は中桐氏。淺田郡王島邨(=村)の人。考(=亡父)の諱は吉右衛門、號は逸翁。妣(=亡母)は堀氏。

家は素(=貧)しく、富饒、王に至る。父は頗ぶる衰う。逸翁、之れを憂いて、鋭意、恢復す君は年少にして發憤し、鎌田玄渓阪谷朗盧に就いて読書す。既にして自ら奮して曰く。區區に章句を治めるに、何ぞ興家濟世を以て足らんやと。乃ち去りて医術を修む。適(=たまたま)医範提綱を示す者あり。乃ち歎いて曰く。医を学ぶは此の如く不当か。

遂に福山に之(=往)き、寺地船里に就いて和蘭文典を学ぶ。尋いで大阪に於いて緒方洪庵及び郁造に、江戸に於いて坪井信道に従遊す。日に夕に研瓚し、矻矻として不已(=止)まず。然るに学資が継(=続)かず、或いは食客となり、或いは書を備なえ、苦しみを攻め、百端の業頗ぶる進む。林洞海は其れを嘉みし、人延監塾生となす。

万延の紀元に幕府の侍醫戸塚静海が其の才学を聞き、養うことを請い、其の女(=娘)を以て配して嗣(=跡継ぎ)となす。是に於いて其の姓を冒(=名乗る)して、静泊と改稱す。時に長崎の或る伝習所は蘭人を聘して医術を講習す。文久二年、君は幕命を奉じて長崎に抵(=至)り、蘭醫之杜意武に従って学び、松本良順に代わりて所務を幹す。當時、物理化學の二科は未まだ聞かず。君は建言して医學校を起し、海外名士を多く聘し、購器械書冊を購して講究に資す。又、乏杜意武を用いて説いて、驗温器顕微鏡を購して其の用方に備究す。蓋し吾邦の為に此器を用いる之權興は居工年業大進(?)。

慶応三年、幕府侍醫と為し文海と改称す。時に内外多事。君は直言して抗論す。人は多くを知るに及ばず。明治之初、朝廷は屡、徴不應。(明治)五年、遂に起(=立)ちて海軍省五等出仕に補す。幾(いくばく)も無くして海軍大醫監を任ず。(明治)九年、海軍省四等出仕兼大醫監に補す。尋いで、總監に任じ、正五位に叙す。会(たまたま)薩南之乱が有り、海軍の衛生療養之制が未だ備わらず、君は拮据して以済の事を經營してか、功を以って二等賜旭日重洸章に叙す。(明治)十六年、職を辞して、點茶聴香し以って閑を消す。自ら市隠庵と号す。既にして從四位叙す。

(明治)三十四年春、病と作(=為)る。特旨により正四位に叙す。未だ數月ならずして從三位に陞す。一歳の兩叙は蓋し異數のこと也。遂(つ)いに以って九月九日東京に薨ず。生を距(へだてる)は、天保六年九月三日、享年六十有七。

皇上は哀悼して素縑二匹を賻し、祭粢金七百圓を賜る。越えること三日、海軍を用(もち)いて喪を命ず。谷中之阡(=墓道)に葬る。元配(=先妻)の戸塚氏は先に亡くなって子は無く、繼妻の久保氏は六男二女を生む。長男は曰く、悦太郎。家を承(つ)ぐ。曰く幸三は殤(わかじに)す。曰く文雄、曰く春海は並んで留学す。曰く幸民。曰く五郎は別に林氏の子豊策として養われ、環海と改名して現に海軍軍醫總監となる。

君、人と為りては頎然長偉剛直にして才辯あり。畢生、醫務に用(もち)う。徳川氏が之れ未だ一大病院を京師に建てることを欲せざるに、東西に奔走して成るに垂(なんなんと)す。而して、會戊辰の変に会いて果さず。

徳川公之徙静岡也分置麾下士數萬人于駿遠二州士咸以僻地乏醫難之。君は林研海坪井信良等と謀りて病院を静岡に建て、且つ多くの養生の徒を俟つ。其の業略(ほぼ)成りて、各地に書士を分遣す。乃ち安而就之及官于朝。亦公餘刱興東京慈恵病院一以療窮民以勸醫術其餘如赤十字社之立案醫會之起首投資慫慂之遺言捐壹萬金資慈恵病院

この碑は戸塚文海の逝去にあたり、最後まで看護をつくした門人一一名の名を刻した碑を墓側に建立し、そのゆえんをしるすことを、文海の子、戸塚文雄からの依頼をうけ、石黒忠悳がしるしたものらしい。ところがこの無名碑の背後は自然石の肌合いをのこしたもので、確認不十分ながら名前を刻した痕跡はみられなかった。一一名の名を刻してのこしたとされる碑-いしぶみ-は、可能性としてはこの無名碑と正対する、戸塚文海の墓の近辺にもうけられているものを見落としている可能性がたかい。

【石黒忠悳】(いしぐろ-ただのり1845-1941)日本の軍医界の功労者。陸奥国伊達郡梁川(現福島県伊達市)の平野家に生まれ一六歳で祖家石黒家を継いだ。一八六五(慶応元)年に「医学所」に入って西洋医学を修めた。明治維新後に神田和泉橋ちかくの「大学東校」に出仕、一八七〇(明治三)年大学少助教となった。翌一八七一年、兵部省軍医寮に出仕して軍医としての第一歩を踏み出し、一八七四年佐賀の乱には陸軍一等軍医正として出陣、一八七七年西南戦争では大阪臨時陸軍病院長を務めた。一八八八年軍医学校長、一八九〇年陸軍軍医総監となり、陸軍省医務局長に任ぜられた。日清戦争(一八九四-九五)では野戦衛生長官として、日露戦争(一九〇四-〇五)では大本営付兼陸軍検疫部御用掛として活躍し、傷病兵の救護、戦時衛生の確保に貢献した。明治初期において西洋医学を各方面に移植することに尽力し、陸軍軍医となってからは日本の陸軍衛生部の基礎の確立に功労が大きい。

退職後、中央衛生会会長、日本赤十字社社長、貴族院議員、枢密顧問官などを歴任。『外科説約』、『黴毒新説』、『虎烈剌論』など多くの著訳書があって、これらが啓蒙的な役割を果たしたところが大であった。『懐旧九十年』そのほかの著書もある。医界の長老として重きをなし、よく長寿を保った。嗣子:石黒忠篤(いしぐろ-ただあつ)は政治家となり農政面で知られた。[大鳥蘭三郎]──────────亡友戸塚君文海之疾病也其門人自遠方来懇看護宛如孝子之於慈親者凡十有一人事詳碑文令嗣文雄君欲示其姓名於将来謀于予今也軽浮成俗不顧情義而諸子之於其師如彼其厚洵足以敦薄起懦是宣傳也因使諸子親書其名刻之於貞石建於墓側予為書其由云友人男爵石黒忠悳識明治三十五年二月

《石黒忠悳がしるした碑文読み下し文》亡友戸塚君文海疾病にて之(=逝)く也。其の門人遠方より来りて看護に懇(=尽)くすこと宛(さながら)孝子の慈親に於ける如き者凡そ十一人。事碑文に詳らかなり。令嗣文雄君其の姓名を将来に示すことを欲し、予(石黒忠悳)に謀ること今也。軽浮成俗なるは情義を顧みず、而して諸子之れ其の師に於いて彼の如く、其の厚恂は敦薄起懦を以て足る。是れ宣(=述)べ伝えるもの也。因って諸子をして親しくその名を貞石(=石碑)に之れ刻み、墓側に建つ。予は其の由を書となす。云。友人男爵石黒忠悳識す。明治三十五年二月

本稿をアップロードしてまもなく「平野の会」の友人から連絡があり、戸塚文海が卒した明治三四年九月九日の四日後、日刊紙『萬朝報』(よろずちょうほう明治三十四年九月十二日、二千八百六十三号)に戸塚文海の業績紹介が掲載されており、それを引いた論文、「長崎医学の百年第二章長崎医学の基礎第十一節ボードウィンの来任」『長崎医学百年史』(長崎大学医学部中西啓)の存在を教えていただいた。

中西啓氏の論文は正確で、詳細を極めたものだったが、ここでは適宜改行と改段を加え、〔亀甲括弧〕内に稿者の補遺を加えて紹介したことをお断りしておきたい。この新聞報道-紙のふみ-の引抄が、-いしのふみ-からの釈読を試みられている古谷昌二氏への支援になれば幸甚である。あわせて冒頭に紹介した高木兼寬関連の記録と、東京慈恵会医科大学沿革などに、なぜか戸塚文海の名が残らなかったことに、いまさらながら残念なおもいがつのっている。

「長崎医学の百年第二章長崎医学の基礎第十一節ボードウィンの来任」『長崎医学百年史』(長崎大学医学部中西啓、1961、pp.97-116)戸塚文海の韓は正孝、字は子成、通称は文海、本姓は中桐氏で、備中玉島〔現岡山県倉敷市〕の人である。幼時、学を郷の先輩に受け、医学に志し、十六才の時、宇田川玄真撰、文化二年刊の『医範提綱』を読み、大いに悟る処あり、洋学を学ぼうと思い、大坂に至り、緒方郁造の門に入り、その後、江戸に出て、坪井信道に随って泰西医学を修め、医学生間に盛名があった。

萬延元年(一八六〇年)、二十六才で、幕府の侍医静春院法印戸塚静海にその才学を愛され、養嗣となつた。この時、長崎の〔医学〕伝習所にポンペが教授していたので、幕命を受け、遊学し、更に後、松本良順氏に代って伝習所を督していたが、ポンペの帰国後は、ボードウィンに随って研鐙し、叉医学生を教督した。ボードウィンは文海の内科に精なるを称し、内科病室を挙げて文海に托した。

慶応三年(一八六七年)、徳川慶喜が宗家を継いで将軍になった時、文海を長崎より召して侍医とし、常に傍らに侍さしめたが、医学の他、洋学に関してその顧問格となり、教示した処が多かったと云う。この時に当って文海は大いに豪商紳士に説いて市立大病院を起そうとしたが、間もなく、維新の騒乱となり、企画は実現しなかった。慶応三年十月に慶喜が大政を返上し、上野に謹慎した際、文海は随って侍した。徳川家が封を駿河に受けた時も従って駿河に移り、林研海等と共に諸生を教督した。そして、維新政府はしばしば招聴したが辞して起たなかった。

明治五年五月、勝海舟の懲癒〔教え諭す、さそい〕により、遂に維新政府の徴に応じ、同十月、海軍大医監に任ぜられ、同九年二月、海軍軍医総監に陞任〔昇任〕した。この時は恰も帝国海軍の創立に際しており、海軍衛生医務の事業において経営規画する所多く、遂に帝国海軍衛生医務の事業を創始した。同十年の役に功を樹て、勲二等に叙され、旭日重光章を賜わり、自ら久しく栄職にあっては後進の進路を妨けることを慮り、同十六年十月、病を称して職を辞し、願によって本職を免ぜられ、家に籠った。

ところが、文海の盛名は都下に噴々としていて、辞職後も静養することができず、病客〔患者〕は門に充ち、車轍の静かな日とてなかった。文海が職を奉じていた余暇に高木兼寛と謀り、首として自ら資を投じ、他を誘って、東京慈恵院を設立し、一は医学の実修とその進歩を謀り、一は貧苦無事の病民を救療するを期し、その恵に浴するもの多く、遂に現代の盛況に到った。晩年、専ら病客を謝し、静居安養し点茶聞香に閑を消したが、その交る所は頗を博く、書画珍器も多く蒐集していた。

その妻配戸塚氏は早く破し、子がなかったので、久保氏を嬰り、六男二女を挙げた。嗣文雄、三男久保春海は共にドイツに留学し、林氏の子を養子としたが、それは海軍々医大監戸塚環海で、英独に留学せしめた。環海も頗る学名があった。文海が病臥すると、門人等は四方より集り、病床に侍したが、その病が危くなるに臨んで、特旨を以て従三位に陞叙せられた。享年六十七才であった。(明治三十四年九月十二日『萬朝報』二千八百六十三号による)──────────協力/古谷昌二、平野正一、日吉洋人、時盛淳、玉井一平、春田ゆかり主要参考資料/『日本人名大辞典』(講談社)、東京慈恵会医科大学(本院)沿革(同大URL)、東京大学医学部URL、古谷昌二『平野富二伝-考察と補遺』(朗文堂)、「昔夢会筆記-徳川慶喜公回想録」『東洋文庫』七六、『日本大百科全書』(小学館)、「長崎医学の百年第二章長崎医学の基礎第十一節ボードウィンの来任」『長崎医学百年史』(長崎大学医学部中西啓)、『干禄字書』(顔元孫遍顔真卿書、中国唐代、明治一二年東京柳心堂〔翻刻〕)、石黒忠悳『懐旧九十年』(岩波書店)

上野彦馬(うえの-ひこま一八三八-一九〇四)は、わが国写真術の先駆者のひとり。肥前長崎生まれ、号は季渓。鵜飼玉川(うかい-ぎょくせん一八〇七-八七)、下岡蓮杖(しもおか-れんじょう一八二三-一九一四)らと並び、もっとも早い時期に「コロジオン湿板法」による営業写真館を長崎の中島川河畔に開いて、職業的に写真を撮りだした人物である。

彦馬の父、上野俊之丞(うえの-としのじょう一七九〇-一八五一)、あざな常足は、長崎の富裕な御用商人であり、長崎奉行所の御用時計士として、出島への出入りを許されていた。彦馬はその次男であったとされるが、俊之丞の没後一二歳でその家督を相続している。代の絵師でもあった俊之丞は多才なひとで、西洋の知識を積極的に取り入れ、火薬原料である硝石の製造、さまざまな形象や紋様を綿布に型染めにする「更紗」(中島更紗)の製造もおこなっていた。

また俊之丞は一八四八(嘉永一)年には、フランスでの発明から間もない写真術「ダゲレオタイプ」の機材一式をオランダからいち早く輸入した。ダゲレオタイプとは、フランスのルイジャックマンデダゲールによって発明され、一八三九年にフランス学士院で発表された写真術である。この方式では銀板上にアマルガムで画像が形成される。また一回の撮影で一枚の写真しか得ることができず、複製はできなかったし、できあがった写真は左右逆像となっていた。俊之丞は、日本にはじめてダゲレオタイプ(銀板)の写真機を輸入した人物とされている。

上野俊之丞による写真は管見に入らないが、同様のタゲレオタイプの写真術で、薩摩藩士が撮影した薩摩藩主:島津斉彬の写真が、日本人の手になるはじめての写真とされ、重要文化財に指定されている。

島津斉彬(しまづ-なりあきら一八〇九-五八)薩摩藩の第一一代藩主。島津氏第二八代当主。尚古集成館所蔵。日本人の手による日本最古の銀板写真。国の重要文化財に指定されている。

そんな上野屋敷には、俊之丞の盛名を慕って多くの蘭学者が集まり、家庭内での会話にも頻繁にオランダ語が使われていたとされる。そうした環境の中で、彦馬も日常的に貴重な蘭書を目にし、西洋の学問についての会話を耳にして育った。こうした父の行蔵は、まだおさなかったとはいえ、実子の彦馬に与えた影響はいわずもがなであろう。母の伊曽も教育熱心で、彦馬は幼少時代の初学を、町内の私塾:松下平塾に通ってまなんでいた。

一八五一(嘉永四)年にその俊之丞が没し、上野彦馬が一二歳で家督を相続した。なにぶんまだ幼少であったので、翌一八五二年から四年間、大分日田の広瀬淡窓の私塾「咸宜園」に入門して漢学を学んだ。一八五六(安政三)年長崎へ帰り、オランダ語を通詞名村八右衛門(号:花渓)に伝授された。同門の先輩に福地源一郎(櫻痴のち東京日新聞主筆兼社長、衆議員議員、戯作者)、名村泰蔵(のち司法官僚、貴族院議員、東京築地活版製造所第三代社長)らがいる。

さらに一八五八(安政五)年には、オランダ軍医ポンペファンメールデルフォールトを教官とする「医学伝習所」の中に新設された「舎密試験所」に入り、「舎密学」(セイミChemieオランダ語化学)を学んだ。このとき、蘭書から「コロジオン湿板法写真術」のことを知り、大いに関心を持つにいたった。そこで「舎密試験所」で同僚だった、伊勢国津藤堂藩藩士:堀江鍬次郎(あざな:公粛)らとともに、蘭書を頼りにその技術を習得、感光剤に用いられる化学薬品の自製に成功するなど、化学の視点から写真術の研究を深めた。また、ちょうど来日したプロの写真家であるピエールロシエにも写真術の実際を学んだ。

《伊勢国津藤堂藩藩士:堀江鍬次郎と藤堂和泉野守高猷の江戸屋敷》この時代、肥前長崎は海外情報があふれ、沸騰する坩堝のような様相を呈しており、全国各地各藩から有為の若者が崎陽長崎に集まっていた。彦馬は「舎密試験所」で八歳ほど年長の伊勢津藩士(現在の三重県)堀江鍬次郎(ほりえ-くわじろうあざな:公粛一八三〇-六五)と知りあった。鍬次郎は短命で、その業績に関して知るところは少ないが、正規の藤堂藩の藩士であり、先端知識の取得のため藩命をうけて長崎に派遣されていたとみられる。いずれにせよ鍬次郎は彦馬の良き先輩であり、共同研究者となった。鍬次郎はときの藩主:藤堂高猷(とうどう-たかゆき、通称:和泉守、号:観月楼、維新後伯爵一八一三-九五)に願って、当時一五〇両もした最新式の湿板写真機一式を、藩費で購入することを許された。

藤堂高猷は、幕末維新期の伊勢国津藤堂藩藩主。藤堂高虎にはじまる藤堂家一一代藩主にして、最後の藩主となった。黒船の来航をみた幕末には、幕命をうけて海防のための大砲を鋳造し、江戸湾台場の築造にあたるいっぽう、一八五八(安政五)年に藩領の町人のために郷校「修文館」を開設した。もともと公武合体論者だったため、幕末には幕府軍と官軍(新政府軍)にたいして中立の立場をとっていたが、鳥羽伏見の戦に際し、山崎関門で藤堂藩の指揮者:藤堂采女は、中立から一転してにわかに幕府軍を攻撃、幕軍敗北の原因のひとつとなったとされる。その後の戊辰戦争では津藤堂藩は新政府軍に参加して従軍した。

藤堂高猷の維新後は、拝領屋敷であった和泉橋近くの藤堂和泉守上屋敷(現千代田区神田和泉町一)を返上し、いっとき近在にあった旧藤堂藩中屋敷(現台東区)で生活した。一八六九年(明治二)年津藩知藩事となり、同四年六月隠居。伯爵。明治二八年二月九日死去。享年八三。墓は東京都豊島区の染井墓地にある。法名は高寿院詢蕘文道大僧正。

一八六〇(万延元)年、彦馬と鍬次郎は藤堂高猷の命をうけて江戸に行き、神田和泉橋ちかくの藤堂藩中屋敷(現台東区)に滞在した。それから一年近くの間、ふたりは幕府「蕃書調所」に通いながら、藤堂屋敷に出入りする大名や旗本諸侯を撮影していた。

《大名屋敷上屋敷中屋敷下屋敷と、神田和泉町の成立》大名屋敷とは、参勤交代によって江戸に参勤する大名に幕府から与えられた屋敷である。はじめは標準とか基準といったものはなく、幕府も屋敷地の下付を申請した大名に対して任意に屋敷地を与えていた。一六五七(明暦三)年のいわゆる「振袖火事」とよばれる江戸大火を契機に、幕府は江戸の都市計画をたて、江戸城内にあった尾張、紀伊、水戸の御三家をはじめ、幕府重臣の屋敷を城外に移すとともに、大名屋敷を、上(かみ)屋敷、中(なか)屋敷、下(しも)屋敷の三つに分けた。

「東都下谷絵図」(『切絵図現代図であるく江戸東京散歩』人文社)から『江戸切絵図』(尾張屋版1849-70)を紹介した。「切絵図」では家紋の刷ってあるところが大名の上屋敷で、表門の位置もあらわす。■印は大名の中屋敷、●印は大名の下屋敷をあらわす。それぞれ印のある位置が表門である。

この時代、地図左端に描かれた神田川にもうけられた橋があり、藤堂和泉守上屋敷にちなんで「和泉橋」と呼ばれていたが、和泉町という呼称はまだなかった。現在はこの橋も道も拡幅されて昭和通りとなっている。当時はこの通りの左右に徒士衆と呼ばれ、徒歩で行列の供をしたり、警固にあたった徒組に属する侍(下級士族)が多く居住しており、切絵図には「此通御徒町ト云」としるされている。現在の御徒町のゆらいである。

《伊勢国津藤堂藩二十七万九百五十石とは》

藤堂高虎(とうどう-たかとら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名。伊予今治藩主。のちに伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。藤堂高虎は、浅井織田豊臣徳川と何度も主君を変えた戦国武将として知られる。また築城技術に長け、宇和島城今治城篠山城津城伊賀上野城膳所城などを築城し、黒田孝高、加藤清正とともに築城の名人として知られる。

津藩は伊勢国(三重県)津に藩庁を置いた藩。安濃津藩藤堂藩ともいう。藩主藤堂氏、城持ち外様大名であった。一六〇八(慶長一三)年藤堂高虎入封後、廃藩置県まで続いた。高虎は近江国犬上郡藤堂村(近世は在士村)地侍の家に生まれ、はじめ浅井氏に仕えたが、のち秀吉の異父弟秀長に仕え紀州粉河二万石、秀長没後は秀吉の直臣となって文禄四年伊予板島(宇和島)七万石の大名となった。

秀吉没後は徳川家康の篤い信任を受け、関ヶ原の戦の戦功により慶長五年伊予今治二〇万石に封ぜられた。高虎は伊賀伊勢入封後、大坂方に備えて同一六年軍事的拠点として伊賀上野、政治的拠点として津城の大修築を行い、津は参宮街道を城下町に引き入れて各町割を定め、上野は三筋町など町割を作って城下町を整備した。

大坂冬夏の両陣の功により一六一五(元和元)年伊勢国鈴鹿奄芸三重一志四郡内で五万石、同三年積年の功を賞され伊勢国田丸領五万石を加増された。また弟藤堂正高知行の下総国香取郡内三千石領有も認められ三十二万三千九百五十石となった。一六三五(寛永一二)年二代藤堂高次のとき、高虎の義子高吉統治の伊予越智郡二万石は伊勢飯野多気郡内と振替となり、一六六九(寛文九)年高次致仕に際し、次男の藤堂高通に五万石を分与して支藩久居(ひさい)藩が立藩した。一六九七(元禄一〇)年、藤堂高通の弟高堅の久居藩襲封時に三千石を分知して、津藩は二十七万九百五十石となり、この石高は維新時まで変わらなかった。

津は現在の津市となった。三重県中部、伊勢平野のほぼ中心にあり、三重県の県庁所在地で、人口は三重県では四日市市につぐ、およそ二八万人のまちとなっている。

《神田和泉町の名前》神田和泉町(現:東京都千代田区神田和泉町)は、一八七二(明治五)年に、伊勢津藤堂藩上屋敷の旧地と、旧出羽鶴岡藩酒井家中屋敷と、三軒の旧旗本屋敷を合せて起立した。町名は藤堂氏の受領名「和泉守」にちなむ。西は神田松永町、南は神田佐久間町二-三丁目、東は向柳原(むこうやなぎはら)一丁目、北は下谷徒(したや-かち)町一丁目下谷二長(したや-にちょう)町(現台東区)。藤堂氏は一六五七(明暦三)年の大火後当地に土地を拝領して幕末に至る。

沿革図書によると、神田和泉町(現:東京都千代田区神田和泉町)とされる地域は、延宝年中(一六七三―八一)は藤堂藩上屋敷、水野隼人正中根平十郎の屋敷と酒井左衛門尉抱屋敷、一七一八(享保三)年は藤堂藩上屋敷、酒井左衛門尉抱屋敷、中根内匠牧野伊予守松平右近将監朽木土佐守の各邸が占める武家地であった。

一七四六(延享三)年は朽木邸が植村庄五郎邸、牧野邸が稲葉興三郎邸になっている。一七六五(明和二)年は松平邸が酒井勝次郎邸、植村邸が岩城伊予守邸に、一七八三(天明三)年は酒井勝次郎邸が松本十郎兵衛邸、岩城邸が三枝源十郎邸に、一七八九(寛政元)年は松本邸が松平兵庫頭邸に、一八〇六(文化三)年には鶴岡藩中屋敷と中根勘解由三枝修理能勢伊予守能勢介十郎の屋敷となっていたが、維新まで一貫して伊勢津藤堂藩をはじめとする武家地であった。

下部を横断している河川は江戸城外堀の役割もはたした神田川で、石神井方面から流出する小河川をあつめた人口河川である。地図上では左から右に流れて隅田川に合流していた。和泉町は江戸時代もいまも神田川左岸のまちであった。

和泉橋から北(上部)へ直行する道は、「此通御徒町ト云」とされた通りで、現在は拡幅されて昭和通りとなり、その上を首都高速道路がはしっている。地図左下の空き地は一八六九(明治二)年末の大火後に設置された火除地である。ここには鎮火神社として秋葉権現が祀られていたために秋葉原(あきばはら)と称した。現在の秋葉原駅にあたる。この秋葉原駅昭和通り口からでると、昭和通りを横断して徒歩四-五分で「千代田区神田和泉町」に到着する。

上野彦馬はまたおなじ一八六一年(文久元)年九月、藤堂公と共に藩領の津(現三重県津市)へ同行し、藩校「有造館」の洋学所で蘭語と化学を講義した。翌一八六二年堀江鍬次郎(公粛)の協力を得て、藩校「有造館」の化学教科書『舎密局必携』を著し、同書中の「撮形術ポトガラヒー」の項で写真技法について詳細に述べている。

『舎密局必携』(せいみきょく-ひっけい)は、上野彦馬がワグネル(RudolphWagner)ほかの蘭書を抄訳し、また宇田川榕庵訳述『舎密開宗』を参考に著述し、堀江鍬次郎(公粛)の校閲になる化学実験便覧である。一八六二(文久二)年に前篇三巻(総説、無機化学の非金属部、ガラス製法、写真術)を刊行したが、予定した中篇四巻(金属部)、後篇六巻(有機化学)、附録三巻(試薬、雷機器、伝信機、坑工所業など)は未刊に終わった。それでも化学の入門と写真術の手引き書として好評を博し、津江戸京大坂の書店より発行され明治中頃まで愛読された。

《長崎にもどり、中島川河畔に「上野撮影局」を開設》一八六二(文久二)年の暮れ、上野彦馬は長崎中島河畔の自邸に営業写真館「上野撮影局」を開設、写真撮影業をはじめた。当初は、長崎に滞在する外国人を顧客とした肖像写真の撮影をおもに手がけたが、やがて日本人にも客層を広げていき、坂本龍馬、高杉晋作をはじめとする多くの幕末の志士たちも上野のもとを訪れ、被写体として肖像撮影に臨んだ。

明治期に入ってからも彦馬は写真士としての活動を旺盛に繰り広げた。一八七四(明治七)年、金星の太陽面通過を観測した日本最初の天文写真を撮影。一八七七(明治一〇)年には長崎県令北島秀朝(ひでとも一八四二-七七)の委嘱により「西南戦争」の戦跡を記録撮影した。

陸軍参謀本部に提出されたそれらの写真は、弟子の冨重利平(とみしげ-りへい一八三七-一九二二)が、反政府側(西郷軍)の谷干城(たに-かんじょう)の依頼で撮影した同戦争の記録写真とともに、現存する日本写真史上最初の戦争写真として知られており、同年第一回内国勧業博覧会(東京上野公園)に出品され、鳳紋褒賞を受賞するなど、その写真は歴史的、文化的にも高く評価されている。

一八九〇年年代には「上野撮影局」支店を、ロシア沿海州のウラジオストクや、中国の上海、香港にも開設していた。その門人から内田九一(うちだ-くいち一八四四-七五)、守田来蔵(一八三〇-八九)、冨重利平(とみしげ-りへい一八三七-一九二二)をはじめ、明治期に活躍した写真士が輩出した。一九〇四(明治三七)年五月二十二日長崎新大工町の自宅で没。享年六十七。長崎の皓台寺にねむる。

上野彦馬撮影吉宗(よっそう)の正月風景

吉宗の茶碗むしは、茶碗むしと蒸寿しが一対となった夫婦蒸しで、ほかにはない、吉宗伝統の名物料理です。穴子をはじめ、海老、鶏肉、しいたけ、きくらげ、銀杏、たけのこ、蒲鉾、麩、などの吟味された材料と味加減は、百五十有余年の伝統の味がそのまま生きている名物のひとつです。

そのなかの「宮川スクラップブック」に、上掲図版で紹介した「吉宗よっそう」の正月風景をふくめ、上野彦馬の写真資料が相当数あることに、迂闊ながら帰京後しばらくしてから気がついた。

《さすがに名人とうならせた桃渓橋ももたにばし上野彦馬撮影》彦馬はおそらく中島川と西山川の合流地点あたりまで重いカメラを(数人で)はこび、中島川上流の桃渓橋を撮影したものとおもわれる。すなわち下流から上流方向に向けて桃渓橋を撮影している。

香港の書体設計士:郭炳権さんから、うれしいお便りと、大量の近作パンフレットをお贈りいただいた。郭炳権さんは70歳代なかば、44年余にわたる経験をほこる著名な書体設計士で、1980-2000年にかけて、わが国の株式会社写研に数百万におよぶ漢字書体原字を提供されたとされる。その一部は写研から発売されて好評を博していた。

審査会場と審査員が指定されたホテル(北京大学教職員専用)は豪華なもので、どうしてかすべて北京大学とそのキャンパス内の北京大学関連施設であった。応募部門は「排版字体設計創意字体設計英文字体設計≒本文用書体部門ディスプレー用書体部門欧文書体部門」からなり、欧文書体をのぞくふた部門はあまりに応募点数が多かった。

このお三方の謦咳に接することは多かったが、18年後のいまは、「年年歳歳花相似たり歳歳年年ひと同じからず」のおもいを強くするばかりである。

本墓標の書は吉田晩稼(よしだ-ばんか、一部資料によしだ-ばんこう。一八三〇-一九〇七)による。太平洋戦争で上野駅周辺に投下された焼夷弾が至近に落下したために墓標には焼損がみられるが、晩稼の書を知るためにも貴重な墓標である。吉田晩稼(一八三〇-一九〇七)に言及した資料はすくないが、ここではわずかな記録から紹介する。

吉田晩稼は長崎興善町に文政一三年一〇月六日(一八三〇年)生まれた。はじめ長崎明倫堂長川東洲、書を春老谷にまなび、のち兵学を高島秋帆にまなぶ。幕末に奔走家として活動し、維新のさいには新潟に遊学していたが、そこで山県有朋の寵を得て、秘書、ついで陸軍大尉となった。のち東京にでて書家に転じる。楷書大字を得意とし、筆力雄勁にして及ぶ者なしと評された。大阪四天王寺境内本木昌造銅像台座、靖国神社の石標、旧陸軍省、警視庁などの門標を書している。明治四〇年四月三日七八歳をもって東京で死去。別号に香竹。吉田晩稼夫妻の墓は、東京都港区南青山青山霊園、二種イ号八側にある。墓碑銘は「香竹吉田先生墓」(書は門人の岡見正)。

また教科書用活字として、俗に「晩稼流ばんか-りゅう」とされる楷書書風で版下を製作し、一八九九(明治三二)年一〇月二二日、国文社発行『尋常小学校読本』巻五以上に使用刊行されている(『教科書体変遷史』板倉雅宣、朗文堂、p.20)。先般<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>会員:平野正一氏が吉田晩稼の書の興味ぶかい資料を入手され、同会に寄託された。そのため同会内部で数名が吉田晩稼研究に着手したという。

その際に入手した、当時の「哈爾浜印刷材料廠」の活字見本帳『鉛字品种様本』が稿者の手許にのこっている。その五九ページに「日歴字瑪72点→日本統治時代の活字見本七二ポイント二千五百字種」がある。楷書大字を得意とした吉田晩稼の書と通底するところがあるのかも知れない。ところで七二ポイントサイズの活字とは、一インチ(二五四センチ)格のおおきなサイズであり、わが国では新聞社の見出し活字などをのぞくと、鋳造活字としては一般市場ではあまり見かけないものである。

招待先の黒竜江大学のご好意で、日本統治時代から長年にわたって同所に勤務されたという老工匠が招かれていて、工場案内にあたっていただいた。このかたは日本語がきわめて流暢だった。老人はこの書体の風格には厳しかったが、「この七二ポイント活字は日本の書家の原字で、バンカ活字」だと何度も述べていたのが印象にのこっている。

この一対の石灯籠は東京築地活版製造所の関係者によって捧げられたものである。向って左側の石灯籠の台座裏面に「東京築地活版製造所」と刻し、続いて、曲田成、松田源五郎、谷口黙次、西川忠亮、野村宗十郎、竹口芳五郎、谷田鍋太郎、松尾篤三、湯浅文平、古橋米吉、高木麟太郎、浅井義秀、太原金朔、仁科衛など総勢十四名の氏名が列記してある。

向って右側の台座裏面には、左側に続くかのように以下の十六名の氏名が列記してある。秋山雅長、奥井徹郎、横井清三郎、広瀬己巳郎、上原定次郎、益子芳之介、西成□政、若林由三郎、倉岡寿平次、永井卯三郎、片寄利吉、岡崎努、栄朝重、伊藤義人、三野又一、岡洵。

本稿では、おもに平野富二の創設による東京築地活版製造所の第二代社長:曲田成を取りあげる。これまで曲田成に関する資料は、業界紙誌の断片的な記録をのぞくと、『日本人名大辞典』(講談社)の以下のようなわずかな紹介をみるだけであった。

【曲田成まがた-せい18461894】明治時代の実業家。弘化三年生まれ。もと阿波徳島藩士。維新後実業界にはいり、明治一六年平野富二の東京築地活版製造所をついで所長となった。明治二七年一〇月一五日死去。四九歳。幼名は岩本壮平。

ほかにもこの献灯台座に名を刻した何人かが登場してくる。そしてなぜか、この献灯台座には、東京築地活版製造所の象徴的な創立者とされ、平野富二が礼を尽くしていた本木昌造の継嗣本木小太郎(いっとき東京築地活版製造所「社長心得」に就任一八五七-一九一〇)の名がみられない(『本木昌造伝』島屋政一、朗文堂)。

あらかじめ断りしておくが、平野富二の逝去後まもなく一八九三(明治二六)年に商法が実施された。したがって商法の実施以後に、長崎新塾出張東京活版製造所/有限責任東京築地活版製造所は、株式会社東京築地活版製造所となる。また石川島平野造船所/有限責任石川島造船所も、株式会社東京石川島造船所となり、幾多の増資合併と変遷をへて現IHIにつらなってる。商法の実施後の両社の商号に、ともに「東京」の名前が冠されていることは、ここではひとまず注目しておいていただきたい。本稿では煩瑣をさけ引用資料紹介などをのぞき、これ以降年代区分をすることなく、両社を一貫して「東京築地活版製造所/東京石川島造船所」と表記させていただく。平野富二が手がけた多くの事業のうち、残念ながら、活字版製造と印刷関連器機製造を主業務とした東京築地活版製造所は、一九三八(昭和一三)三月に清算解散が決議され、多くの記録がうしなわれ、一部は神話化されて伝承されてきた。

平野富二生誕一七〇年にあたり、平野家墓地の献灯台座に、東京築地活版製造所関連者の筆頭に刻まれていた「曲田成」に関して、近年国立国会図書館によって紹介された新資料から見ていきたい。

明治二八年一〇月一六日発行(非売品)編輯兼発行者松尾篤三東京市京橋区築地一丁目七番地印刷者野村宗十郎東京市京橋区築地一丁目二十番地印刷所東京築地活版製造所東京市京橋区築地二丁目十七番地【国会図書館資料請求記号:特29-644】

東京築地活版製造所の基礎を築いた創業期のふたりの社長をあらためて並べてみた。平野富二東京築地活版製造所創設者/初代社長弘化三年八月一四日-明治二五年一二月三日1846.08.14-1892.12.03享年47曲田成東京築地活版製造所第二代社長弘化三年一〇月一日-明治二七年一〇月一五日1846.11.19-1894.10.15享年49

このふたりは弘化三年(一八四六)という同年のうまれである。わずかに一ヶ月半ほど平野富二が先に誕生している。またふたりとも仕事人間で、平野富二は講演中に倒れ、そのまま卒した。曲田成は出張先の姫路の旅舎で倒れ、看取るものもなく卒した。わずかな違いは、曲田成が二年ほど長命だっただけで、それでもふたりとも五〇歳を迎えることなく卒している。

稿者にとっては長らくの疑問があった。それは、東京築地活版製造所を語るとき、象徴的な創業者である本木昌造ばかりが熱心に語られ、創設者の平野富二はわずかに触れられるだけで、二代社長/本木小太郎、三代社長/曲田成、四代社長/名村泰蔵に関してはほとんど触れられず、ポンと飛んで第五代社長/野村宗十郎が喧伝される事実であった。

本書『東京築地活版製造所社長曲田成君略伝』は、東京築地活版製造所第二代社長/曲田成(まがた-しげり)の略伝である。知られる限り唯一本であり、管見ながらこれまで本書から引用された論考をみたことは無い。序文を校閲〔刪正〕にあたった福地源一郎(櫻痴三号明朝字間四分アキ)がしるしている。本文は氏名不詳のふたりの人物がしるし、(五号明朝字間四分アキ)で組まれている。本文後半に弔文「曲田成君ヲ弔フ文」(東京活版印刷業組合頭取佐久間貞一)、「曲田成氏ヲ追弔ス」(密嚴末資榮隆不詳)がある。最後に「跋」がおかれ、東京築地活版製造所社長の名で名村泰蔵(三号明朝字間四分アキ)がしるしている。

刊記(奥付)には、発行日として「明治二八年一〇月一六日」とあり、おそらく曲田成の一周忌に際して刊行されたものとみられる。編集兼発行者は松尾篤三(東京市京橋区築地一丁目七番地)である。この松尾篤三に関して知るところは少ないが、谷中霊園の平野富二墓前の対の石灯籠の向かって左側の台座、東京築地活版製造所関連の名前の列挙八番目にその名をみることができる。印刷者として支配人野村宗十郎(東京市京橋区築地一丁目二〇番地)がある。印刷所として東京築地活版製造所(東京市京橋区築地二丁目一七番地)がある。

この間、古谷昌二氏をはじめ、板倉雅宣氏、桜井孝三氏、平野正一氏、春田ゆかり氏、松尾篤史氏、日吉洋人氏、大石薫らとの論考会を何度かもった。そこで解消した疑問も多いが、あらたに発生した疑問も多数ある。したがってまず本稿を01-1としてご紹介し、あまり時日をおかずに、01-2の発表を準備している。

曲田成略伝序〔福地源一郎Ⅰ-Ⅳ四号明朝体20字詰め08行字間二分行間全角〕東京築地活版製造所の社長、名村泰蔵君が一小冊子を懐にして来たりて余〔福地源一郎櫻痴〕に告げて曰く、これはわが社の故社長:曲田成の略伝なり。曲田の没後、予〔名村〕はその空席〔乞〕を継いで職を続けています。所務を統纜するのに際して、いつも曲田の、ものごとをきちんとやり遂げる能力と、勉励を追憶して忘れることはありません。

余はたしかに曲田君を知る。名村君にいたっては竹馬の同窓であり旧友である。したがって病後の衰労を理由としてこの要請を辞退することは忍びない。そこで要請をうけてこれを閲読し、余分なところを削り、その欠けたるところを補い、事歴をつまびらかにすることに及んで、益曲田君がおおいに当時のひととして卓越したひとであったことを知るなり。

そもそも創意をこらしたり、起業をなすことが困難なことはひとの認めるところである。ところがそれを継承し改良することが困難なことは、ときとして創意起業の困難より至難なことを、往々にしてこれを認めることができないのは世間にありがちなことである。而して曲田君はこの至難な継業に任じて、能く所務の隆盛をはかるひとである。名村君が曲田君を追憶して止まないのはまことにもっともなことである。

まさしくひとが世にあるときは、赫々の功名はいっとき喧伝されるが、その死後となると、ぼんやりとしてしまって、尋ねるための跡も無いものである。滔々と世の流れていくさまとはみなこのようである。

曲田君のような人物は、その生前のときを知らなければ、一見もって中庸のひととする。しかるに歿後にいたり、ひとをして敬慕と哀惜の念を増さしめる斯くのごときものは、実際に本当の功績が存在することに感銘するがゆえにあらずや。

余はここにおいて、曲田君の生前に君を敬い、重くみることが少なかったことを愧じるのみである。嗚呼余は先に平野富二君を追悼してまだ数年にもならないのに、また曲田君の伝記を校閲した。筆を擱いて涙がはらはらと落ちるばかり〔泫然〕。明治二八年〔一八九五〕一〇月福地源一郎しるす

==========曲田成君略伝〔氏名無記名の筆者がふたり。五号明朝体30字詰め10行字間四分アキ行間五号全角と二分ひとりは二字下げでリード分をしるしたひと。もうひとりは感情を抑制して事実列記につとめたひとp.01-25〕

偉大なる事業とは一世一代にして大成するものではない。まず発明があり、創意工夫があり、継業があり、改良があってのちに、はじめて大成をえるものである。

いにしえより、英雄豪傑の士は時勢の気運に乗じて、その功を一世にしておさめたといえども、やはりふつうは一世一代にして大成するものではない。いわんや、蒸気機関の開発や電気器機のような、ものごとの大業とされる事業とは、みなこのようである。

わが国の活版事業においても実にこの通則にあるものであった。まさしく活版事業の創意者は本木昌造君にして、その継業者は平野富二君である。そしてその事業を拡張改良して、これを大成させたる者は曲田成君であった。これらの三名は皆その年齢が五十歳に達しないまま〔本木昌造は数えて52歳で歿〕はるか遠くにいってしわまわれた〔遠逝〕。

ああ、天はどうしてこの三君にたいして歳をかさねることを惜しんだのだろう。そして創始者たる本木君の伝は曲田君がこれを世におおやけにした〔『日本活版製造始祖故本木先生小伝』曲田成編明治二七年九月〕。継業者たる平野君の伝もまたその稿を脱稿した〔未見〕。ゆえにここに拡張者であり改良者である曲田君の略伝を編輯して、その経営と辛苦の蹟を顕わさんと欲するなり。

君の姓は曲田(はじめ岩木と称す)、名は成(幼名を荘平という)〔まがた-しげり/『日本人名大辞典』(講談社)ほか一部の資料は、まがた-せいとする〕。弘化三年一〇月一日〔一八四六年一一月一九日〕淡路の国津名郡物部村〔淡路島にある兵庫県洲本市。江戸期は阿波徳島蜂須賀藩領であった〕にうまれた。

父を富太郎と呼ぶ。母は関氏のひと。曲田家は代代徳島〔本藩の〕藩士であった。二歳にして父をうしなって母に養われた。幼くして川端豊吉氏を師として書をまなび俊秀の名があった。やや長ずるにおよび藩学校にはいり漢籍をまなぶ。その進歩の様子は衆を越えていた。

一八六六年〔慶応二年曲田成数えて二〇歳〕藩主蜂須賀侯〔一三代蜂須賀斉裕-はちすかなりひろ〕が、従来の兵法をあらためて英国式の兵制を布くのにあたって、曲田君は熱心に練兵の法をまなんでおおいに得るところがあった。そのため銃卒一番大隊の小隊司令官に選抜され、刻苦勉励、もっぱら隊伍を訓練することをもって自任していた。

一八七〇年〔明治三〕藩士が稲田家に事件をおこすにあたり〔五月一三日(新暦六月一一日)徳島藩士が、家老稲田氏所管の洲本屋敷(館)を襲撃。稲田騒動、阿波庚午事変とも。別項で紹介〕、曲田君は一方の指揮官となり進退はなはだよろしきをえたが、その挙動〔稲田騒動〕はまったく藩士の私憤に出るのゆえをもって、その職を罷免された。

一八七一年〔明治四〕藩主〔一四代蜂須賀茂韶-はちすかもちあき〕はふたたび兵制をあらため、フランス式練兵法を採用するにあたり、再度その教授役に挙げられた。しかしながら曲田君はおおいに時勢を達観するところがあって、断然その職を辞し、もって自活独立の途をもとめるために、親戚や知人のつよい諫めを聴かず、単身旅したくをととのえて上京の途につけり〔曲田成数えて二五歳の頃〕。

嗚呼たれか安逸を望まざるものがあろうか。嗚呼たれか娯楽を欲せざるものあらんや。そのようなわけで〔然り而して〕、この安逸のために不測の辛酸を嘗め、この娯楽のために惨憺たる悲劇を演じて、ついに失望の域に沈み、落胆の岩に触れ、いまだ彼岸に達せざるに、すでにその身をおくに苦しむものはいずれも〔比比〕皆同様である。しかるに曲田君が職を辞して、さらにあらたな路に向かって自営の道をもとめ、意を決して東上したことは、ただ気ままに遊び楽しむこと〔目前の逸楽〕は他日の不幸となることを前もって知った〔前知〕ためではなかろうか。

曲田君が征途についたとき、ほんのわずかな資金をふところにし、そまつな笠をかぶり、みずからひと包みの服を背負い、気力をふるいおこして〔慨然〕故郷をさった。道中では幾多の艱苦をなめたが、かろうじて東京に達した。しかしながら寄るべき朋友は無く、訪問すべき故旧をおとなうこともなく、ひとりぼっちで〔孤影単身〕艱苦は身に迫ってしまった。

平野富二がここを本拠地とした期間は一八七二年七月-七三年七月までのほぼ一年間という短い期間であったが、平野と曲田成の膠漆の交わりがはじまったのは、この現東京都千代田区和泉町一の東南あたりの地であったとみてよい。

ここには東京大学医学部の前身「大学東校だいがく-とうこう」が開設され、森鷗外もこの門長屋での寄宿生活をすごし、小説『雁』にこの風情をのこしている。(平野の会:古谷昌二平野正一氏同日情報提供『江戸名所道外尽神田佐久間町』広景画、辻岡屋、国立国会図書館請求記号:寄1-9-1-7)

幸いなことに当時東京築地活版製造所の創始のときに際し、平野富二君が神田佐久間町〔藤堂和泉守藩邸内門長屋の一隅現千代田区和泉町一、和泉公園の神田佐久間町三丁目の右斜め向かい側あたり〕に、長崎出張所〔長崎新塾出張活版製造所〕を開設し、ひろく活版業の需要をはかり、将来にむけて有為の士をもとめていた。

曲田君ははからずも平野君の知遇を得て、今後この事業をともにすることを約した。それからの平野君と曲田君の親密なる交際〔情交〕は、骨肉の兄弟のように一挙一動を共にして一体の観をなした〔平野富二:弘化三年八月一四日うまれ、曲田成:弘化三年一〇月一日うまれ。ふたりは同年のうまれである〕。

平野君が佐久間町〔千代田区和泉町一〕に斯業を創始したのは明治五年七月〔一八七二年六月〕のことで、まだ世間ではおおむね活版とは何であるかを理解するものは無く、顧客、ユーザー〔需用者〕はまたわずかであった。しかしながら曲田君はひたすら平野君のさしず〔指顧〕にしたがって日夜事業の進展をもとめ、あえてほかを顧みることはしなかった。まさしく当時の曲田君の心境は、いわゆる南海の一寒生〔貧しい書生自分の謙称〕にして、平野君の知遇を得たるをもって、ひたすらつとめはげみ〔孜々黽勉ししびんべん〕、ただそれでも及ばざることを恐れ、そのはじめはみずから活版配達夫となって奔走した。累進して鋳造係りとなり、翌明治六年八月〔長崎新塾出張活版製造所が〕築地二丁目に移転するにおよび、ますます平野君とともに斯業に勉励した。

わが国最古級の冊子型活字見本帳の口絵に描かれた東京築地活版製造所社屋の図版は、木口木版を印刷版とし活版印刷機で印刷された/笹井祐子(日本大学藝術学部教授)

平野富二が単身で上京し、東京での市場調査と、携行した活字を販売したのち、本格的に首都東京に進出したのは、まだ改暦前で一八七二年六月(明治五年七月)のことであった。平野富二がこの上京に際して、上海→長崎→神戸→横浜間の定期貨客船(外国飛脚船)をもちいて、まだ普及していなかった海上損害保険に本木昌造の反対を押しきって加入していたことは記録されている。このとき活字鋳造器機、活字母型その他の荷物とともに、新妻こま、品川徳太郎(品川徳多とも、品川藤十郎長男、一八五一-八五)、松野直之助(一八四六-七八上海にて歿す)、松尾徳太郎、桑原安六(のち東京築地活版製造所支配人)、和田国雄(のち東京築地活版製造所支配人)、相原市兵衛、大塚浅五郎、柘植広蔵らとともに海路上京した。

この旅の詳細は記録されていないが、おそらく横浜で外国船をおりて、小型船を乗り換えながら、品川沖から石川島沖を経由して隅田川に入り、さらに神田川を遡上して和泉橋河岸-かし-あたりで荷物を降ろしたものと想像される。すなわち、平野富二が当時の呼称、神田佐久間町大学東校表門通り〔和泉藤堂守上屋敷門長屋/現在の千代田区神田和泉町一〕に「長崎新塾出張活版製造所」の看板をかかげて斯業を創始したのは一八七二年六月(明治五年七月)のことであった。

ここには「文部省活版所」の名で、本木昌造の命をうけて先行していた小幡正蔵と営業部員の大坪本左衛門が、どういうわけか「小幡活版所」の看板を掲げていた。この「文部省活版所」、「小幡活版所」の業容と消長は知るところがすくないが、小幡正蔵は一八七一年(明治三)一〇月本木昌造が「文部省活版御用」を任ぜられ、平野富二が大阪活版製造所の小幡正蔵をともなって上京したと記録されている。したがって小幡正蔵はもともと大阪活版製造所のひとで、短期間の在京で帰阪したものとみられる。また平野富二一行到着の翌年、大坪本左衛門は平野富二の了解を得て、湯島嬬恋坂下に「大坪活版所」を設けて独立開業して、平野富二の活字取次販売と活版印刷業をはじめた(『本木昌造伝』島屋政一、朗文堂)

この前年、一八七二年四月三日(旧暦では明治五年二月二六日)、「銀座大火」とされる大火災があった。銀座大火は和田倉門内旧会津藩邸から出火、折からの強風にあおられ、、東京の中心地、丸の内、銀座、築地一帯が焼失した。こまかくは、銀座の御堀端から築地までの九五万四百平方メートル(四一町、四千八百七九戸)を焼失した。焼死八人、負傷者六〇人、焼失戸数四千八百七四戸という記録がのこる。

京橋の町人地を一通り焼いた火焔は、ふたたび東隣の旧武家地に侵入、伊達宗徳邸(旧宇和島藩伊達家上屋敷)、亀井茲監邸(旧備中松山藩板倉家中屋敷)、西尾忠篤邸(旧横須賀藩西尾家中屋敷)などを焼いて、築地川(現首都高速都心環状線)を越え、開墾会社牛馬会社など新興会社が拠点としていた現築地一-三丁目を横断、築地本願寺に到達し、築地本願寺の大伽藍はもちろん、周辺の末寺も焼失した。この「銀座大火」をきっかけに、明治新政府は寺社と墓地の移転をはかり、銀座周辺を耐火構造の西洋風の街路へと改造することとなった。

平野富二は教育施設となった「大学東校文部省活版所」内、あるいは隣接地での仮工場は、活字鋳造には不適であると判断し、また森鷗外と同様に居心地がわるかったとみえる。そこで平野富二が注目したのは、水運に恵まれ、焼亡地となっていた築地二丁目二〇番地の一画一二〇坪余であった。上京後一年、はやくも一八七三(明治六)年夏には金三千余円をもって購入手続きをすませ、七月某日「長崎新塾出張活版製造所」を築地の仮工場に移転し、同年一二月二五日、自費で建築した耐火性に富んだ煉瓦家屋の引き渡しをうけた。

この築地の土地は、のちに東京築地活版製造所の本社工場敷地、隣接して平野富二邸敷地として周辺が買い増しされていくが、明治六年〔一八七三〕一二月に完成した煉瓦づくりの新社屋の図がのこる。東京進出からわずか五年後、アメリカ合衆国独立100周年を記念して開催されたフィラデルフィア万国博覧会(一八七六年五月一〇日-一一月一〇日)への出展に際して製作されたとみられる冊子型活字見本帳、通称『活版様式』(一部欠損本、印刷図書館蔵、明治九)の口絵である。同展には先行したパリ万博ウィーン万博での中心展示となった漆器陶磁器扇子屏風浮世絵などに加えて、文明開化の成果としての近代産業の展示が政府からもとめられた(『米国博覧会報告書日本出品目録第二』米国博覧会事務局、明治九年、国立国会図書館、請求記号:特28-157)。

この際、直接の担当者(官僚)は手島精一で、のちに蔵前の東京高等工業学校校長、現東京工業大学の創立者のひとりとされる人物であった。手島精一はその後も東京築地活版製造所に支援をかさね、『花の栞』巻四、五に序文をしるしている。この手島精一らの要請をうけて、官営の印刷局とならんで、民間企業の東京築地活版製造所も和田国雄を主任として現地に派遣し、活字類手引き式印刷機などを出展した。

その翌一八八七年(明治一〇年)、東京上野公園で第一回内国勧業博覧会(政府主催)が開催された。その際に出展したものとみられる東京築地活版製造所『BOOKOFSPECIMENSMOTOGI&HIRANO』(活版製造所平野富二、平野家蔵、明治一〇)も現存している。この俗称「平野活版所活字見本明治九年版明治一〇年版」の二冊の活字見本帳は、それぞれ孤本(明治九年版はほぼ完本で一九八〇年頃にはイギリスの図書館にあったが、現在は所在不明)とされているが、二冊ともに口絵図版の門柱に「長崎新塾出張活版製造所」の縦長看板があり、一八七三年(明治六)年一二月に完成した煉瓦づくりの新社屋の図がのこる。

この版式と印刷方式は不詳だったが、『BOOKOFSPECIMENSMOTOGI&HIRANO』(活版製造所平野富二、平野家蔵、明治一〇)の原本を間近にご覧になった日本大学藝術学部教授(版画コース担当)/笹井祐子氏により、版式は木口木版、印刷方式は活版印刷機使用であると判断された。従来はわが国における西洋式「木口木版」の開始は、生巧館合田清のフランス留学からの帰国一八八七(明治二〇)年をもってはじめとするが(『日本印刷技術史』中根勝、八木書店p.246)、その通説をくつがえす報告である。

当時の〔活字〕鋳造は、いまのような「カスチング」をもちいず、はじめは「流し込み」たりしものにして、「ハンドポンプ」をもちいるようになったのはひとつの進歩というべきほどのことであった。曲田君は日常の談話でよくこのことに触れ、手足や顔に火傷をすることがたびたびであったとかたっていた〔この部分は稿をあらためて解説したい〕。

一八七六年〔明治九〕六月二六日、曲田成は平野富二の奥書を得て、家禄奉還のことを出願した。家禄を奉還して自力で食い扶持を得ようとすることは、実に常人のできることではない。日本帝国中でこのような断りの意思を示した行為は稀有のことであるとして、知事はこれをよしとして、銀盃一個を賞賜した。その文に曰く、─────────────────────────────────────────────────────

乞家禄奉還書(家禄奉還を乞う書)士族曲田成謹言す

名東県令公閣下維新以来文明は日に進み、開化は月にあらたに、都市もひなびた地方でも〔都鄙〕様相をかえて〔革面〕、旧習をのぞき、善政がおこなわれ農民も商人も食に満ち足りて、生業を楽しんで〔鼓腹〕います。このような時に際して、士族はほんのすこし〔繊毫〕も役にたつこと〔裨益〕もなくして、家禄をたまわり、空しく日日の食事にありつくこと〔素飱〕に甘んじています。あるいは〔士族の籍を〕奉還して賜金をもとめ、子孫への遺産となしています。これは実にみずからを省みることが無きこと甚だしいものです。不肖曲田成がかんがえるに〔以為〕、彼もひとなり、我もひとなり。我ひとり日日の食事にありつくこと〔素飱〕をしていてよいのでしょうか。ですからみずから活路をもとめ、子孫のために策を設け、早急に自由の美郷に奔走しようとする以外ないと〔駆馳〕鋭意奮起して、ついに世間のつよい諫め〔指謗〕を顧みず、こころざしを奮い起こして〔慨然〕、一八七三年〔明治六〕二月出京して、活版製造所社長平野富二なるものに遇い、活版の用法を熟聞しておおいに感得するところがありました。

説に曰く、ひとがこの世にあるときは、おのれの能力に応じて食していくべきである〔人の世に在る各其力に食せざるに可らず〕。而してひとりのために謀るは衆のためにするのにおよばない〔若かず〕。一己のために謀るはひろく天下の利益〔洪益〕を謀るのと同等ではない〔如かず〕。その説深く肝肺に銘ず。それ天下のことに労するものは、必ず報酬を得て、労なくして報酬をえるのは、いわゆるただ喰い〔素飱〕である。これにおいて断然平野氏と将来の盛衰を共にせんと約託し、該社に入社(投員)してこの業に従事し、社員と共に夜も日もなくつとめ励んではたらき〔孜々労作〕、忍耐倦まず。まさに時運に応ずる該社の事業は倍増しこんにちの盛大にいたる。

然り而して既往の事跡を追想するに、社長の常にあらざる勉強と、社員のねばりづよい労働〔労耐〕による。そしてここに前掲のようにますます該社は盛大となり、社則も精設して、拙工といえども給与金の三分の一をもって永途就産の資本に予備するの方法〔失業保険制度のこと〕を設け、これにおいて活路すでに確定す。これは勉励によるといえども、そもそもまた、天皇陛下〔天子〕のすぐれた知徳と恩沢〔聖明徳澤〕がもたらしたところである。

よって今回家禄を奉還して平民の戸籍〔民籍〕にはいり、その身のほど〔分〕をまもり、活路にいささかも安んぜずして、ますます素志を拡伸し、確実な資産〔確産〕を子孫にのこす〔遺設〕ことを希望する。

さきに〔曩に〕家禄奉還許可の政令あり。このときにあたって、同属はつぎつぎと〔陸続〕士籍を奉還して、政府から下賜されるお金〔賜金〕を請求した。不肖曲田成がおもうには〔以為〕、ここにおいて家禄を拝受するは無駄喰い〔素飱〕なり。賜金を拝受するのもまた素飱なり。素飱をあまんずることは同一である。

不肖曲田成が家禄を仰ぐことにはもとより希望のものではない。いわんや賜金を貪ることも同様である。然れども、当時はいまだ家禄を辞退することができなかった。これは小生曲田成の遺憾として切歯するところなり。ここにおいて眼前の小利に営々とせず、また遠大な志を企て、常に活路の方法に着目し、もし事が成就したならば、家禄を奉還せんと日夜願うところただ此れのみ。しかるにまた一八七五年〔明治八〕七月家禄奉還を中止するとの政令があった。しかれどもいま、なりわい〔活計〕の方法すでに確定す。いまにして家禄を奉還しなければ〔せざれば〕、これは禄を貪っておのれが儲けをためる〔儲蓄〕を欲しいままにすることになる。これはいさぎよさを傷つけること〔傷廉〕、はなはだしきものというべし。

よってまず家禄を奉還し、民籍に編入せんこと懇願す。伏して乞う、この許可を賜らんことを。かつ賜金拝受のごときは天皇陛下の恩恵が親切で手厚いこと〔徳澤の優渥〕に因るといえども、食のために働かない連中を、いさぎよい態度とはおもえないところである。ゆえに特に辞して免除〔辞免〕を蒙らん。ここにまたあらかじめお願い申しあげます。右陳述するごときであるので、憐れみ、お察しくだされ〔請禹閣下憐察を垂れ〕、そのそそっかしくてくるっていること〔疎狂〕を許して〔寛〕採用あらんことを請う。

もっか〔方今〕県務多端に属す。こまかくてつまらぬ〔区々〕志願をかえりみず、あえて尊厳を干犯す。恐惶のいたりにたまらず伏して明旨を俟つ。

名東県下淡路国津名郡物部村士族東京築地二丁目四八番地寄留明治九年六月二六日曲田成(印)頓首再拝

前書願い書のとおり、曲田成儀とは四ヵ年前より居食をともにし、兼ねて同人儀も素飱を悔いて日夜勉励し、こころざしを同じくし、すでに活路の見込みも相定まり候のとき〔場合〕に至り、わたくしにおいてもしかと〔聢〕保証いたしますので(仕り候間)、本人の願いどおりご採用くだされたく奥書つかまつり候なり。

東京築地二丁目二〇番地平野富二(印)────────────────────────────────────────────────────名東県令富岡敬明公閣下※名東県は、明治初期に、阿波国讃岐国淡路国を範囲とした県。範囲は、当初は現在の徳島県および兵庫県淡路島であったが、長らく香川県の一部も含まれていた。県庁所在地は徳島。一八七一年一二月二六日に設置され、一八七六年八月二一日に廃止された。

※富岡敬明最後の名東県令。一八七五年(明治八年)九月五日-一八七六年(明治九年)八月二一日:権令富岡敬明(前山梨県参事、元小城藩士)

一八七九年〔明治一二〕東京築地活版製造所の「四号明朝活字」と、「六号明朝活字」の活版〔活字〕書体の改良のために、曲田君は上海に出張し、翌一三年春に帰朝した。

はじめ東京築地活版製造所が斯業を長崎の地におこすのにあたっては、なにぶん草分け〔草創〕のためもあって、その活字書体原字書体〔字母書体〕を精選するにいとまがなく、得る〔獲得〕のにしたがって、これを製造し、これを販売してきた。したがってその活字書体は雑駁にして、みやびやかな風情〔雅致〕も、感興をさそうあじわい〔趣味〕も有していなかった。

そして遂に平野君はこの大任を曲田君に任せることにした。曲田君はこれに応えて、一層の奮発と励精とをもってその任にあたった。幾多の歳月を積みかさね、ようやくにしてこの活字書体の改良を大成することができた。その間活字原字彫刻〔種版彫刻〕の技術に関して得ることができた経験と知識はわずかなもの〔尠少〕ではなかった。

こんにち活字の良品とするもので、まずわが東京築地活版製造所に指を屈するようになったのは、ひとえに曲田君の刻苦勉励がもたらしたものである。そして逝去の一日前にも、旅先の姫路から書簡を社員に寄せて、ますます精進するように命じていた。

これより先、平野君は造船製鉄事業を東京石川島に開き、〔東京築地活版製造所と石川島平野造船所〕の両方の事業がますます繁盛におもむくのをもって、さらに北海道函館港に造船工場を設置せんとして、一八八〇〔明治一三〕九月曲田君を伴って函館に出かけ、その地の有力家渡辺熊四郎氏ほか数名とともに、同所にある海軍省の造船用の器械類の払い下げを請求するのにあたり、曲田君は終始これの斡旋の労をとり、計画に参加してよい結果を得た。

翌一八八一〔明治一四〕東京築地活版製造所支配人の桑原安六氏の退社に際し、函館より帰京して支配人補助となり、一八八五年〔明治一八〕和田國雄氏にかわって支配人となった。

その後社会の文運はますます進歩し、斯業の発達は愈迅速になった。東京築地活版製造所は常にその指導者となり、これら斯業者のよき仲間〔夥伴〕となり、活字の改良も益あゆみ〔歩武〕を進め、先進者たることの名声を失墜させることがなかった。これらは実に支配人として、事業家として、曲田君の操縦よろしきに因るものあった。

一八九九年〔明治二二〕六月、本木小太郎氏が海外留学七年の星霜を経過して(閲して)帰朝した。そこで平野君は創業者たる本木昌造君の遺志にそって、また自分の日頃からのおもい〔素願ここでは造船と器械製造〕を遂げるために、東京築地活版製造所社長の職を小太郎氏に譲ることとした〔社長心得〕。そのとき曲田君は支配人から工務監査の職に転じ、いささかの閑を得たが、止むことなく益工事の作業を研究していた。

ところで当時の経済と社会のさわぎ〔波瀾〕はほとんどその極に達し、商工業者はみな衰えて元気をなくして〔萎靡〕振るわなく、沈滞の歎声は国内全体〔海内〕にかまびすしく、朝に起こりて夕に倒れたるもの、指を屈するにいとまがないという惨憺たる状況となった。商工業者は挙げて、まさにおおきな惨禍〔一大旋禍〕のなかにひきこまれようとする危機的状況にあった。

東京築地活版製造所もまたその渦中に巻きこまれようとしたことは数次におよんだ。そのためにしばしば〔屢〕株主総会をひらき、将来の営業方針を討議したが、いつも重要な点をつかむ〔要を得ず〕ことができなかった。このときにあたり、このこんがらかった糸のように、まぎれ乱れた〔紛乱せる乱麻〕議論を整理し、こんにちのような盛大な企業にしたるゆえんは、あげて曲田君の力によった。

当時の曲田君はおおいに計画するところがあって、一八八九年〔明治二二〕一二月三〇日、株主総会最終日、すなわち東京築地活版製造所の存廃を決するという日において、七項の条件を委任〔たれから?どんな条件を?当時の株主は平野富二初代谷口黙示松田源五郎品川藤十郎と島屋政一は記録する〕せられて社長の任につき、翌三一日事務員一同の辞職を聞き届け、各部の職工を解雇した。年をこえて一八九〇年〔明治二三〕一月二日、再度曲田君が信任するものを挙げて事務を分担させ、職工の雇い入れなどをなさしめた。

およそ社会のことは、盛んにもてはやされたり、敗れたり、また、張りつめることもあれば、弛むこともある〔一興一敗一張一弛〕ことは免れざるところにして、またやむを得ないことである。そしてその歳月〔年所〕を経るにしたがって、まちまちであり、また私情がからんで処置のしにくい事柄〔区々の情実〕がまとわりついて〔纏綿〕、ついに一種の疾病となることは往往みなそのとおりである。当時の東京築地活版製造所も、実にこのような疾病を得た状態にあった。しかしながら社会の風潮はようやく実業の前途において、その場のがれや、一時的にとりつくろう〔姑息の緶縫〕ことを許さないという状況にいたっていた。

それに加えて不景気の嘆声は東京築地活版製造所の前途の販路を押しこめてふさぎ〔壅塞〕、閉店の杞憂を抱かしめ、早晩の挽回の方法を講じなければいかんとも〔奈何〕なすことができないという状況に瀕していた。こうした事情があって、株主が一致して曲田君を挙げて、東京築地活版製造所の挽回を一任したのである。

このような時機に際しては、あたかも名医が快刀一下、病疾の宿瘍を切開するように根本的な改革をおこなわなければ、この危機を救済することはできない。曲田君はおおいにそこに覚悟があって、事務員と職工を解雇するという英断を施すにいたったのである。そもそも数年にわたる親密な交際〔情交〕がある者に向かって、いきなり〔一朝〕解雇の厳命を伝えるのは人情において忍びないところがあるが、曲田君のきっぱりとした決心は、幾多の毀誉を顧みずに、改革の企図のもとその効験を確信しておこなわれた。こんにちふたたびその基礎を確実にして、社運が隆盛にいたったのは、実にこの曲田君の英断と卓識に因ったものであった。

一八九〇年〔明治二三〕一一月東京活版印刷業組合創立に際し、同業の諸氏とともに運動してこれを成立させた。ついで翌一八九一年〔明治二四〕六月東京石版印刷業組合の創立にも曲田君は創立に尽力し、同組合でも事務委員となり、爾後重任を重ねて晩年にいたった。

一八九一〔明治二四〕二月『印刷雑誌』発刊の挙があって、故本木昌造君の偉大なる事業〔鴻業〕の伝記が掲載された。これを全国の同業者知らしめんと欲して、特に数百部を購入して各同業者に配布した。

一八九三年〔明治二六〕製版協会の設立を斡旋し、翌年同会が解散して東京彫工会に合併するのにあたり、その交渉委員に挙げられた。

同年七月印刷物見本交換〔同会発行冊子『花の栞』〕を創定した。これはわが国におけるこの種の〔印刷物交換の〕嚆矢にして、斯業者を益すること尠少ではなかった。翌年第二回を挙行し、その結果をみずして歿す。当初のその一冊を帝国博物館〔館長/手嶋精一のち『花の栞』四号五号に序文をしるす。のち現東京工業大学学長に就任〕に納めたところ、官はこれを嘉して木盃を賜った。

一八九三年〔明治二六〕八月東京彫工会製版部長に挙げられ、同二七年東京活版印刷業組合副頭取に挙げられた〔頭取/秀英舎佐久間貞一〕。

またこれより先、曲田君は播但鉄道株式会社の創立に従事した。曲田君の名望卓識は遂に同社株主をして君を監査役としたため、しばしば〔屢〕山陰山陽一帯を遍歴〔跋渉〕していた。

一八九四年〔明治二七〕一〇月もまた、播但鉄道株式会社のために兵庫県姫路に出張していたが、一〇月一五日午後、突然脳充血症をもって姫路の旅宿に歿した。ときに数えて四九歳であった。

急ぎの電報が自邸に達し、驚愕、悲傷のさまはたとえようもなかった。遺族はただちに西下し、遺骸を護って帰ってきた。一〇月二一日東京府白金大崎村に葬った。当日東京活版印刷業組合頭取/秀英舎佐久間貞一ほか一名が左の弔文を朗読せり。

────────────────────────────────────────曲田成君ヲ弔フ文

これ、明治二七年十月二一日、築地活版製造所長曲田成君の葬儀を挙行する。東京活版印刷業組合委員等が棺の前に参会し、謹んで〔寅テ〕君の霊に告げる。

即ち、君は本木平野両氏の後を承けて、ますます活版製造の事業を拡大し、諸種の活字が精確で、花形片画〔ママ罫画か装飾罫の可能性〕が斬新なことは、すべて君が熱心に企画した所に関係している。これによって、築地活版製造所の名声は国内国外に鳴りひびき、欧米の印刷雑誌もこぞって〔嘖嘖〕賞賛するようになった。

感心することには〔嗚呼〕、君のようなひとは、よく草創の事業を継ぎ、先輩の偉業を衰えさせない者ということができる。

今や欧米の印刷術は一変して、精妙で巧緻を競うようになった。君はこれに対して、この風潮に伴って美術的観念を活版製造上にうまく傾注するばかりでなく、また、うまく活版印刷上に用いて、見本交換を発起し、同業者と提携してこの技術の改良進歩を計画すること、至れり尽くせりであった。ああ、嘆くしかないが〔嗟々〕君が同業社会に功労あるのは、このようにまったく多大である。仮にも君の後継者が十分に君の意思を体してその規模を倍々に拡張したとして、それは君がすでに死んだというけれども、生きていると同じことである。心から希望するに〔庶幾クハ〕君の霊が、また少しく慰め労わるところがあるであろう。

活版印刷業組合を組織されてから、われわれ仲間は君と手を一堂に握り、この技術の進歩を企画すること数回であるが、君は、或る日、われわれ仲間をそのままにして、遠くに逝ってしまった。今後は相談仲間が一人少なくなってしまった。これを思うと涙が止まらない。これ以上ことばがおもいつかない。東京活版印刷業組合頭取明治二七年一〇月二一日佐久間貞一再拝────────────────────────────────────────曲田成氏を追弔する

人の世に暮らしてゆくには、必ず艱難なしにはできない。艱難がなければ、目的を達する気持ちが堅固で確実なものにはなり難い。したがって、艱難に遭遇することがますます多ければ、ますます奮励して不撓不屈の精神により、これを克服することができる。そうでなくても、もしも、途中でその艱難辛苦のために、むなしく目的達成の気持ちが折れ曲がることがあれば、はたして、その年来の志望を達成して美しい花を咲かせることができるだろうか。

昔から洋の東西を問わず、英雄豪傑と称されてその勲功を永く伝え、その名声を百代まで伝える人は、皆、この定められた道を踏まない者はないであろう。

考えてみれば、あのアメリカを発見して世界に他の人のない勇敢者と言われたコロンブスは、自分の身をはるかに巨大な浪に直面させ、技量を茫漠とした海洋で練り、何日も生死の目に遭い、数多くの風雨にさらされて、ついに念願の志望を達成し、絶大な大業を樹立して、世界に冠たる者となったのではないだろうか。

あれこれ多くの人がいうには、人間が人間として大業偉功によって人を驚かすようになるには、不撓不屈の精神で艱難に立ち向かって全力を尽くし励む力があって、ここに至るというより他に道はない。

いま、曲田氏の来歴のようなものも、また、同様である。活版事業の羅針盤となり、鉄道事業家の指導者と仰がれ、内では多くの人に尊敬され、外では多くの人が従う地位を授けられたのも、これまでになったのは偶然ではない。

もの悲しい風が寂しく吹き、悲しみの涙が雨のように落ち、堅固な精神と断ち切る断腸の思いで、身を置くところもなく、温かい着物もなくて飢えに苦しむという年月も、あるいは、幾星霜のことか。

公〔曲田茂氏〕は、よくこれを実践し、これを耐え忍んだことで、今日、世間の人が尊敬し、功名が朝日のように昇るに伴って、死んでも名前が残る者であるということができる。感心することに、これは尋常で平凡な人ではないと、われ等は声を大きくして憚らない。

そうとはいっても、不老不死の薬を得る者が誰かあるだろうか。生きる者は必ず死し、会う者は必ず別れの時が来る。川はながれ流れて昼夜の別なく変転すること速く、昔の人は今は居ないという格言を免れることはできない。

曲田成君にても、本月一五日、播州姫路の旅館で、錦風蕭颯の声のように突然、病魔に襲われ、年令四十余りを一期として、急にあの世へと帰らぬ人となった。これにより肉親知己の者達は、悲しみの涙が胸中にあふれ、哀悼の情につつまれた。喪に服すよりも、むしろ、涙してかなしみなさい。嘆き悲しむに情けある人ならばこの人に対して誰か追悼し、惜別の涙を流さない者はあるだろうか。

悲しみに涙することで、人をいきかえらすことができるだろうか。嘆いても声のない帰らざる旅路は、いっそのこと、縁ある導師を招いて、およそ即身成仏の印契を受けるほかないであろう。

よって、導師は、仏号を得芳院慈運明成居士と与え、堂の柱上にある飾り受木は雲上の荘厳をよそおい、読経の梵唄は粛々として内院に導き、焼香の芳薫は馥郁として霊魂を慰める。

行きたまえ、行きたまえ、奥深く荘厳な密厳の園へ。

名園の赤く色づいた樹木は、霜枯れた枝をより良いとは思わない。ひらひらと舞い落ちる木の葉は、落葉の時にその奇妙さを競う。これらを快く思うことに疑いがあるだろうか。

よって、もし、人が仏の慈悲を求めるならば、菩提心に通達する。

父母が生む所の身体は、速やかに大いなる悟りの境地を保証する。

時に明治二七年一〇月二一日密厳の末に資する栄隆謹んで申す────────────────────────────────────────※上記の後半六行ほどは意味不明のところもありますが、ひとまずこの程度でご容赦を〔弔文釈読/古谷昌二〕。

曲田君の資性は篤実で人情にあつく〔敦厚〕、穏やかで慎み深い〔穆乎〕温容は、ひとをして心服させる。その凛乎たる決心は、ひとをして感動せしむ。君の先見は着々と企図にあたり、君の熱心はいちいちそのおこないにみられる。君の統率は寛厳その良きを得て、君の心のひろさ〔襟度〕は児女もなおこれを慕う。早くから〔夙に〕本木君の小伝〔『日本活版製造始祖故本木先生小伝』曲田成編明治二七年九月〕を著してこれを世上に紹介し、『実用印刷術袖珍版』を著して同業者の進歩をはかり、近日また平野君の小伝の稿あり〔未見〕。惜しいかな、天は命を君に仮さず、この有為のひとをして有為の年に遠逝せしめたり。君に二女あり。伊藤氏の子を以て長女に配す。

==========跋〔あとがき〕〔名村泰蔵Ⅰ-Ⅱ四号明朝体20字詰め08行字間二分行間全角〕

噫、胸がつまってため息がでるが、本書は故曲田成君の略伝なり。君の歿後に予〔名村泰蔵〕は推薦せられて東京築地活版製造所社長の重任を承けた。君の計画していたところを挙行し、君の企図したところを実施し、地下にある君をして遺憾の意をいだくことがないように希望するのにほかならない。

平野富二伝考察と補遺編著者古谷昌二装本A4判、ソフトカバー、864ページ図版多数定価本体12,000円+税ISBN978-4-947613-88-2C1023

矢次温威は、天保14年(1843)10月19日に父豊三郎の長男として生まれ、幼名は和一郎、後に重之助、重平と称し、明治2年(1869)に温威と改名した。幼名を富次郎と称した平野富二は、3歳下であった。

父の病死により、嘉永1年(1848)10月、数え年6歳で矢次家の家督を継いで、町司役となったが、幼年のため、奉行所の内の了解を得て、年令を11歳として届け出た。『慶応元年明細分限帳』(越中哲也編、長崎歴史文化協会、昭和60年)によると、「矢次重之助丑二十八歳」となっている。これは、丑年の慶応1年(1865)に数え年28歳であることを示す。実際は、5歳のサバを読んでいるので23歳となる。数え年13歳のとき、初めて加役として新仕役掛を勤めている。慶応1年(1865)2月、町司定乗に昇進した。

慶応4年(1868)4月、長崎奉行所に代わって新政府の下で長崎裁判所が設置され、振遠隊第二等兵を命じられる。この時点で、初代から続いた町司の役職は無くなったと見られる。新政府の下で奥州に兵卒として派遣され、転戦して帰還後、上等兵となった。明治5年(1872)2月、振遠隊は廃止され、代わって少邏卒(月給6両)を命じられたが、同年中に解任された。邏卒は今でいう警察官に相当する。

温威の父豊三郎の時代である天保9年(1836)当時、長崎奉行に仕える町司などの地役人は2,069人で、長崎の町人の13人に1人が地役人という情況だったとされている。この地役人たちが一斉に家禄を失ったことになる。以後、特定の職を持たない温威一家は、資産を食いつぶし、親類縁者を頼って不安定な生活を送ることになる。

矢次辰三は、矢次家に入籍してから本木昌造の経営する新街私塾に学び、明治16年(1883)頃に温威の長女こうと結婚、一男三女をもうけている。

幕府の崩壊により家禄を失い、不安定な生活を送る中で成人し、どのような職に就いたかは不明である。しかし、矢次辰三著とする明治27年(1894)9月30日発行の「長崎港新図全」と題する地図がある。この地図は、東京の三間石版印刷所の石版、色刷りの地図で、長崎の虎與號書店から発行されている。

おりしも東京オリンピックをひかえて大型施設の建設がさかんである。そこではサインシステムに関する熾烈なコンペもひかえており、来社されて相談されたかたには相当レベルまで対応策を提示したが、【北京空港のサインからⅣ】、【北京空港のサインからⅤ】は、当分非公開とさせていただいた。

島国日本を脱出して外国への旅となると、よほど時間と資金のゆとりがない限り航空機の利用になる。それもアジアの近隣国ならともかく、欧州やアメリカ大陸への旅となると、どうしても10時間を優にこえる長距離長時間の旅となるし、直行便でなくトランジットが加わると、もっと時間とストレスが増す。パスポート、携行品、そして最近はベルトまで外しての身躰チェックなど、さまざまな手続きと検査を終え、ようやく機内のひととなる。

ドアがバタンと閉まると一気に圧迫感が増す。やがて滑走路に向けて地上走行がはじまり、緊急時における対処法について、国際規定にのっとった対処法が乗務員によってなされる。最近はヴィデオ上映の会社もあるが、安全ベルト、酸素マスク、救命胴衣などの器具の装着を実物もちいて説明がなされる。それを見るともなく、聞くともなくしているうちに、次第に離陸に向けた緊張感が機内をおおう。

JALやANA(エイエヌエーと読んだほうが外国のタクシードライバーにはよく伝わる)といった、わが国の航空会社以外の航空機での旅の楽しみのひとつに、その国の独自言語と独自文字表記による『機内誌』と、無償で配布される新聞の閲覧がある。そしてやつがれ、かつてニューヨークやサンフランシスコのホテルで「13階が無い」ないしはエレベーターが停止しないホテルに宿泊したことがあり、「忌数-いみかず」をそれとなく気にしてみている。

アエロフロートの機内誌には日本語版もあったが、基本的にロシア文字である。いわゆるロシア文字とはキリル文字の一派とされ、9世紀、ギリシャ人の宣教師キュリロス(Kyrillos。ロシア名キリル)が、ギリシャ文字をもとに福音書などの翻訳のために考案したグラゴール文字をもとにして、10世紀はじめにブルガリアで作成した文字とされる。現在のロシア文字はこれを多少改修したものである。

当然ながらキリル文字を使用する国は、ローマンカソリックや、プロテスタントの国とは、様な面で異なる生活様式や思考行動がある。この言語と文字表記を背景とした「正教オーソドックス」は、チェコでもギリシャでもおおいにやつがれの思考を悩ませた。以下に<正教Orthodoxy>を『世界文学大事典』(集英社)より紹介する。

【正教[英]Orthodoxy,[ロシア]Православие】ローマ帝国の東方でギリシャ文化を背景に展開したキリスト教。東方正教、ギリシャ正教という呼称でも知られる。のちに西方のカトリック教会とは袂を分かった。使徒伝承を忠実に保持していると自認し、原語的には〈オルトス=正しい〉〈ドクサ=神の賛美、教え〉に由来する(ロシア語もそれを表現している)。ロシアには10世紀ごろから入り、大公ウラジーミル(?-1015)が国教として正式に受容した(988〔989〕)。ロシアはビザンティン帝国の滅亡後、正教世界の中心となった。正教はロシア文化の背景の一つを成す。

《陽気なロシア人飛行機の離着陸のたびにハラショーの大歓声と拍手》これも団塊オヤジのブログからの知識だったが、アエロフロートのパイロットは、空軍出身者が多く、飛行経験時間もながいので安全性がたかいとする。それでも乗客は離着陸のたびに「ハラショーkhorosho」と一斉に歓声をあげ、機内は拍手につつまれる、とあった。ところが国際線だからという遠慮があったのか、成田→モスクワ、モスクワ→成田への離着陸の際には歓声も拍手もあがらず静かだった。すこしがっかりした。

《Quatarカタール航空で、成田発ドーハ経由ギリシャへの旅》ことしの五月、この連休となる時期には例年サラマプレス倶楽部のイベントが開催されてきたが、ことしはそれが11月に変更されたので、普段の「弾丸旅行──現地泊二泊機内泊往復二泊」にかえて、めずらしくゆっくりと旅をした。目的地はギリシャ、首都アテネとカルデラ環礁のサントリーニ島の二ヵ所。

航空会社はJALとの共同運行によるカタール航空。ギッシリ満員の乗客だったが、日本人客室乗務員もいて、11時間50分の長時間フライトでドーハの巨大ハブ空港、ハマド国際空港カタールに到着した。出発は日本時間で夜の22時20分だったので、成田空港での待機中にあらかたお腹はいっぱいになっていたが、水平飛行になってまもなく夕食が配られた。興味ぶかかったのはトレーの敷紙に「ハラール食品」とおおきく表示され、ハラール認証機関名がアラビア文字で表示されていたこと。帰路もおなじ経路だったが、いくぶんスパイシーな味つけだっただけで、「ハラール食品」はやつがれは格段の抵抗はなかった。

【ハラール[アラビア語]】「イスラム法(シャリーア)で認められたこと(もの)」を意味するアラビア語。おもにイスラム法上で許される食べ物をさす。逆に「許されないもの」として禁止されていること(もの)をハラーム、中間にあたる「疑わしいもの」は、シュブハという。[中略]

イスラム教徒が食べることを許される食品は、規律に沿って屠畜されたウシやヒツジ、ヤギなどの動物、野菜や果物、穀類、海産物、乳製品と卵、水などである。飲食が禁じられているものは、ナジス(不浄)とされるブタやイヌ、アルコールを含む飲料や食品、牙やかぎ爪で獲物をとるトラ、クマ、タカ、フクロウなどの動物、毒性のある動物や害虫、ノミやシラミ、ナジスを餌とする動物などである。イスラム圏に輸出される食品や菓子、化学製品などについては、イスラム教徒が摂取できるかどうかの審査(ハラール認証)を行う認証団体が各国にあり、ここで認証されたものは、ハラール食品やハラール製品などとよばれる。『日本大百科全書』(小学館)

今回の旅は、相当はやくからスケジュールができていたので、いわゆる「早割」で、料金がやすく、また乗り継ぎ便をふくめて坐席番号もあらかじめ指定されていた。希望は昇降に便利で、トイレにも行きやすく、機内サービスもゆきとどく、前方の11B11C(通路側確保)が条件だった。

アエロフロートでの旅と同様機体はすべてエアバスで、ドーハで一度大型機から中型機に乗り換え、五時間ほどのフライトでアテネ新空港に現地時間12時10分についた。いわゆる南回りでの欧州は久しぶりだったし、カタールという、富裕な産油国であり、イスラム教国の航空会社ははじめてで新鮮だった。

《イスラム教の国も、13を忌避するのか?》成田からドーハまで11時間50分の長期フライトの間、なんどかトイレにたった。前方の11番から後方のトイレの間に、13番の列が無いことに気づいた。あれっ、イスラム教徒も13を忌避するのかとふしぎにおもったが、乗り継いだドーハ→アテネの便の機体でも、同様に13の列はなく、11,12,14の順に坐席が配置されていた。結局往復都合4回、カタール航空の機体を利用したが、13番の列はみなかった。また、搭乗時にそれとなくみていたが、通常ファーストクラスとビジネスクラスに配される四の列はあたりまえのようにあった。帰国後カタール航空のURLでしらべたら、機種によっては13番の列もあることを知った。ハラールには厳格であっても、13を忌み数とするふうは少ないようであった。

《旅の最終日、ギリシャ:サントリーニ島からアテネ新空港へ13忌避の本家本元か》ギリシャでは、前半をアテネ市内と近郊の観光とし、後半は高速フェリーで八時間ほど、火山噴火の大カルデラ環礁でしられるサントリーニ島でゆっくりした時間をすごした。最終日、サントリーニ島キララ空港からアテネ新国際空港への45分のフライトとなった。

ギリシャでは13という数字をきらうふうが随所にみられた。ホテルの部屋番号は11,12,14となるし、劇場などの坐席番号でも13はほとんどみないということであった。そのためか、サントリーニ島/キララ空港から、アテネ新国際空港までの45分のフライトで利用した「エーゲ航空Aegean」の坐席番号、荷物入れには急いで撮影したため不鮮明ではあるが13番は無かった。──────────《帰国後に【忌み数】で辞書漁りをしてみたところ》わが国の辞書、辞典類の多くは、積極的にこの語に触れることはなく、どちらかというと、渋紹介しているのではないかとおもえるほどであった。積極的に、豊富な図版資料をもちいて触れていたのは『フリー百科事典ウィキペディア』と、研究社の英語辞典であった。

『日本大百科全書』(小学館)【忌み数いみかず】忌んで使用を避ける数。数について吉凶をいうことはいろいろの事柄について行われている。その多くはことばの音が不吉なことに通じるのを理由にしていわれている。たとえば四は死に通じ、九は苦と同音なので忌まれている。それについての俗信をあげると、四の日の旅立ちや引っ越しはいけない。四の日に床につくと長患いする。また六についてはろくなことはなし、一〇は溶けるといい、一九は重苦、三三はさんざん、四九は死苦といって忌まれている。いわゆる厄年といわれているものにもこの考えがみられる。19歳、33歳、42歳、49歳などがそれである。

奇数偶数については、中国では奇数を吉とし、日本では偶数を吉としていたともいわれるが、かならずしもそうとは決まっていない。日本では古来八の数はよいと考えられているが、中国では七を吉としているようである。しかし贈答品については日本でも四、六、八を避け、三、五、七、九をよしとしている。壱岐島では婚姻に四つ違いは死に別れ、七つ違いは泣き別れなどといい、奇数偶数とは関係ないようである。

13という数を嫌うことは西洋ではキリストの最後の晩餐の陪席者が13人だったことによるという。13は日本でも厄年の一つとされている。13歳の子女が十三詣(まいり)と称して虚空蔵菩薩に開運出世を祈願する風習が各地にある。また山小屋では13人は悪いとされる。船にも13人乗りを嫌う地方があり、三宅島では藁人形などを一つ加え14にするとよいといっている。

『日本国語大辞典』(小学館)【いみ‐かず忌数】〔名〕忌んで避ける数。四(死)、九(苦)などの類。

『広辞苑』(岩波書店【忌数いみかず】忌むべき数。「四」(死)、「九(苦)」など。

『医学英和辞典』(研究社)trìskàidèkaphóbian十三恐怖症《13の数字を恐れること》.【Gktreiskaidekathree-and-ten13+-phobia】

《経験智と読書智、もっと調査が必要とはいえ、当分は〔精神医学的に〕13忌避はしない》かつて読売ジャイアンツにクロマティという外野手がいて、ずいぶん話題の多いひとであったが、背番号44番を背負ってジャイアンツファンからは好感を持ってむかえられていた。やつがれ、もともと鈍感なのか、13番列のエコノミー席に座ったとしてもなんら気にならないとおもうし、四九もほとんど意識したことがない。とりあえずは〔精神医学〕用語とは距離をおいて、のんびりしていたいものである。

東京大学文書館は、東京大学にとって重要な法人文書及び同学の歴史に関する資料等の適正な管理、保存及び利用等を行うことにより、同学の教育研究に寄与することを目的として2014年4月に設置されました。東京大学文書館は、東京大学百年史編集室および東京大学史史料室で収集した資料及び成果を引き継ぎつつ、新たな役割を担って活動しています。

■特定歴史公文書等文部省往復

『文部省往復』は、東京大学と文部省との間でやりとりされた公文書綴です。文部省が所蔵した資料は関東大震災などの影響によって失われており、東京大学文書館が所蔵している『文部省往復』は、日本近代高等教育の成立期の稀少な歴史資料です。これは2013年2月に重要文化財指定を受けており、学術的に重要な資料として評価を得ています。*『文部省往復』は、これまで東京大学文書館の前身である東京大学史史料室で保存公開されてきましたが、劣化の進行により頻繁な閲覧提供が難しくなっていました。そのために同館では、旧文部省側には存在しない歴史資料を保存し、広く活用を促進するために、デジタル画像化メタデータ作成を進めてきました。

S0001/Mo001『文部省及諸向往復附校内雑記』明治四年(甲)の巻頭、目次ページ四〇七丁に意外な記録をみつけた。四〇七丁長崎縣活字版ノ儀当校へ可受取約定ノ処仝縣ヨリ工部省ヘ渡シタル件

昨2016年05月朗文堂サラマプレス倶楽部主催<Vivala活版ばってん長崎>が開催された。その際地元長崎での研究と、東京での研究がつきあわせられ、平野富二の生家の地が特定されるなどのおおきな成果があった。その後「「平野富二生誕の地」碑建立有志会」(代表:古谷昌二)が結成され、全国規模の会員の運動となって、生誕地に記念碑を建立すべく活動がはじまっている。

あわせて、工部権大丞山尾庸三の命により、長崎から東京への移動を命ぜられた活字版印刷器機と、活字と活字鋳造機が、どこへ、どのように持ち去られ、そしていまはどのようになっているのかというテーマで積極的な調査がはじまっている。

新政府直轄の長崎府による経営となった長崎製鉄所の新組織で、頭取本木昌造の下、機関方として製鉄所職員に登用され、1869年1月(明治元年12月)、第一等機関方となる。同年4月(明治2年3月)、イギリス商人トーマスグラバーから買取った小菅修船場の技術担当所長に任命される。その結果、船舶の新造修理設備がなく経営に行き詰まっていた長崎製鉄所に大きな収益をもたらす。さらに、立神ドックの築造を建言してドック取建掛に任命され、大規模土木工事を推進、多くの人夫を雇うことによって長崎市中に溢れる失業者の救済にも貢献。

その間、元締役助、元締役へと長崎製鉄所の役職昇進を果たし、1870年12月(明治3年閏10月)、長崎県の官位である権大属に任命され、長崎製鉄所の事実上の経営責任者となる。その時、数えで25歳。折しも長崎製鉄所が長崎県から工部省に移管されることになり、工部権大丞山尾庸三が経営移管準備として長崎を訪れ、帳簿調査などで誠実な対応振りを高く評価される。

長崎製鉄所の工部省移管により、1871年5月(明治4年3月)、長崎製鉄所を退職。造船事業こそ自分の進むべき道と心に決めていたことから、工事途中の立神ドック完成とその後の運営を願い出るが果たせなかった。1871年8月(明治4年7月)、活版事業で窮地に追い込まれていた本木昌造から活版製造部門の経営を委嘱され、経営方針の見直しと生産体制の抜本改革を断行、短期間で成果を出す。需要調査のため上京、活字販売の見通しを得る。

1872年2月(明治5年)になって、安田古まと結婚し、新居を長崎外浦町に求める。近代戸籍の編成に際して平野富二と改名して届出。同年8月(和暦7月)、新妻と従業員8人を引き連れ、東京神田和泉町に活版製造所を開設、長崎新塾出張とする。活字販売と共に活版印刷機の国産化を果たし、木版印刷が大勢を占める中、苦労しならが活版印刷の普及に努める。

政府、府県の布告類や新聞の活版印刷採用によって活字の需要が急速に伸張したため、1873(明治6)年7月、東京築地に移転。翌年、鉄工部を設けて活版印刷機の本格的製造を開始。平野活版製造所または築地活版製造所と称する。

『文部省及諸向往復附校内雑記』明治四年(甲)の目次「四〇七丁長崎縣活字版ノ儀当校へ可受取約定ノ処仝縣ヨリ工部省ヘ渡シタル件」から、本文四〇七丁をみた。長崎にあった活字版印刷器機と活字鋳造機は、当時の最先端設備であった。そのため断片的な記録ながら、これらの設備の獲得のために、「工部省と文部省(大学)とのあいだで紛争があった」という記録は印刷史の記録にもわずかにのこっていた。

四〇七丁の記事は、大学南校(のちに東京開成学校から東大へ)の用箋にしるされ、湯島にあった大学にむけて、<長崎縣活字版ノ儀当校へ可受取約定ノ処仝縣ヨリ工部省ヘ渡シタル件――大意:長崎県にあった活字版印刷設備は当校〔大学南校〕がうけとる約束だったのに、長崎県から工部省に渡された件>と題して、「当校には断りもなく工部省に横取りされた。約定違反であり、不条理である」と憤懣やるかたないといった勢いでしるされている。

この記録からみても、大学南校、大学東校には長崎県活版伝習所関連の設備の大半は到着しなかったとみられる。また両校の最初期の教科書類を瞥見した限りでは、長崎由来の活字を使用した形跡はみられない。

ただし大学南校においてはオランダ政府から徳川幕府に献上された「スタンホープ手引き式乾板印刷機」をもちいていたとする記録はのこっている。そして長崎から移管を命じられた活字版印刷器機活字鋳造器械活字などは大半が工部省勧工寮に到着したが、それにかえて新進気鋭の平野富二が、新妻とスタッフを連れて、再購入した新鋭機とともに東京に乗りこんできたのである。

1872年2月(明治5年)になって、富次郎は安田古まと結婚し、新居を長崎外浦町に求める。近代戸籍の編成に際して平野富二と改名して届出。同年8月(和暦7月)、新妻と従業員8人を引き連れ、東京神田和泉町に活版製造所を開設、長崎新塾出張とする。活字販売と共に活版印刷機の国産化を果たし、木版印刷が大勢を占める中、苦労しならが活版印刷の普及に努める。

すなわち、『文部省往復』と、「平野富二生誕の地」碑建立有志会での研究成果を照らしあわせると、平野富二の東京への初進出の場所「神田和泉町」とは、大学東校(のちに東京医学校から東大医学部へ)の敷地内そのものであった。これらのことどもは、先行した印刷史研究関連資料からは容易に引き出せなかったが、東大医学部の前身大学東校の記録も『文部省往復』には満載されている。

そしてこの神田和泉町時代の大学東校内のおなじ建物に、時期こそ違ったが寄宿し、ここでまなんだ、医師軍医文学者/森鷗外と、やはりここで寄宿し、それを指導した石黒忠悳らの記録も次と精査されはじめている。本年は明治産業近代化のパイオニア-平野富二生誕一七〇周年である。

その研究成果の展示発表と、平野富二の東京での足跡をたどるバスツアーが企画されていると仄聞する。当然神田和泉町も築地二丁目と同様に、重要な訪問地として設定されている。ここから近代医学教育と治療が本格的にはじまり、本格的な近代活字版印刷術≒タイポグラフィも、ここで呱呱の産声を揚げたことになる。

アテナイ西隣のメガラのアクロポリスは双生児のように並ぶ二つのなだらかな丘。コリントスのものは、市の背後にそびえる巨大な丘で、アクロコリントスと呼ばれ、頂上にアフロディテ神殿などがあった。アルゴスでは大小二つの丘がアクロポリスとして固められ、大きい丘の斜面に劇場、麓にアゴラがあった。スパルタのものは目だたない低い丘で、上に神殿があり、ヘレニズム時代には南斜面に大劇場がつくられた。これらは機能的にも美的にもアテナイのものに比すべくもないが、ロドス島のリンドスでは海に臨む断崖を利用して絶景となっていた。

『おにぎりオリーブ赤いバラ』は、序章に「始まりは一本の電話から」がおかれ、第一章アテネの道第二章ギリシャは魅力がいっぱい第三章ギリシャ政府公認ガイドになる第四章それからの私からなる。四六判並製本240ページの好著である。おチビさんだったという娘時代のこと、厳格なミッションスクール活水でのおもいで多い学生生活、のちの夫:ジョージとの出会いなどが、てらいの無い平易な筆致で淡淡と描かれる。キリスト正教(トリニティ)の洗礼や受洗名(ミドルネーム)のことなどを興味深く読み進めた。

ところが第三章に紹介された「アクロポリス」の記述に、「そうだったのか!」と膝をたたくおもいであった。繰りかえしになるが「のりこさん」はこう述べていた。〔アクロポリスの「アクロ(アクロス)」というのは、「突端、先端、はしっこ」という意味。ポリス(都市国家)にある突端、とんがっているところ、つまり小高い丘ということになる〕

ギリシャもわが国と同様に島嶼国家である。そして真っ先に脳裏に浮かんだのは、「長崎のアクロポリス」の光景であった。すなわち長崎の地形と、現在の長崎県庁の前の案内板「岬の教会西役所全景」の絵図と、その下部におかれた「イエズス会本部跡奉行所西役所跡長崎海軍伝習所跡」の解説であった。「ここ長崎県庁は、長崎のアクロポリスだったのではないか」そして「のりこさん」が学んだ活水女子大学(現:活水東山手キャンパス長崎市東山手町1)も、もうひとつのアクロポリスだったのではないのか?というおもいであった。*戦国時代、ポルトガル船の来航により開港した長崎は、中島川が堂門川(西山川)と合流する付近まで入り江となっており、中島川右岸(上流からみて右側)の、海に向かって長く突き出た岬の台地上に新しく六ヵ町が造成され、それを基点に発展して都市が形成されたといわれている。古地図をみると、その後埋め立てによって「出島」がつくられたので紛らわしくなっているが、県庁前庭にたつと、アテネのアクロポリスと同様に、海にむかってなだれ墜ちるような地形がのこる。

文化庁では、平成26年度から文化審議会国語分科会漢字小委員会において、「手書き文字の字形」と「印刷文字の字形」に関する指針の作成」に関して検討を進めてきました。このたび、その検討結果が国語分科会において「常用漢字表の字体字形に関する指針(報告)」(案)として報告されましたので、お知らせします。

◎経緯漢字の字体字形については、昭和24年の「当用漢字字体表」以来、その文字特有の骨組みが読み取れるのであれば、誤りとはしないという考え方を取っており、平成22年に改定された「常用漢字表」でも、その考え方を継承している。しかし、近年、手書き文字と印刷文字の表し方に習慣に基づく違いがあることが理解されにくくなっている。また、文字の細部に必要以上の注意が向けられ、正誤が決められる傾向が生じている。今回の報告では、漢字の字体字形について詳しく解説するとともに、常用漢字(2,136字)全てについて、印刷文字と手書き文字のバリエーションを分かりやすく例示している。

現在ある赤門は文政10年(1827)、徳川家斉の息女溶姫が前田家13代藩主、斉泰へ輿入れするにあたって建立された。以来、190年、本郷邸の歴史の半分近くもの間、赤門は、江戸の終焉から東京大学の創設、発展の歴史を見守ってきた。加えて、2017年は本郷邸開設400年の節目の年にあたり、かつ、東京大学設立140周年の節目の年にあたる。これらを機に、赤門という国指定重要文化財が語る本郷邸の歴史を提示するのが本展である。

近年著しく進展した本郷キャンパス埋蔵文化財の発掘、歴史文書の集成、そして本学施設部記録の調査。それらの成果をあわせ、赤門の由来を本郷邸開設にまでさかのぼって知る機会としたい。

東大医学部は安政5年(1858年)に、長崎や大阪でオランダ医学を学んだ伊東玄朴を中心とする82名の者の寄附金で設立された〝お玉ヶ池種痘所をルーツとする(中略)。すでに種痘は全国で実施されていたが、江戸では江戸城の将軍の御典医の漢方学派の多紀グループが反対したためにそれまで実施できなかった。

これはジェンナーの種痘のことで、日本中に猛威を振るった天然痘の予防ワクチンのことである。伊東玄朴らは拒否され続けた種痘所が遂に設立が認められた年である。しかし〔お玉ヶ池種痘所は設立後〕たった6ヶ月で火事で類焼した。佐倉の豪商の援助で、すぐに現在の三井記念病院のある下谷の和泉橋通りに再建され、〝西洋医学所〔種痘所医学所〕と名称を変えた。医学所は教育診療をかねた医学校の前身であった。医学所には鉄の門扉が取り付けられていたので、江戸町民はこの医学所そのものを鉄門と呼んだ。

THE END
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